責任を取らない日本語

投稿日時:
2024/04/10
00:01
著者:
ベチャール

 最近、日本語が一定の方向で変わりつつあるように思われる。いくつか例を挙げてみたい。

(1)「・・・となっております」の無主語
 例えば、「当駅では全面禁煙となっております」という言い方が広がっている。これは、自然現象か、「天の声」か、「おかみ」のお達しで、「・・・となっております」と言っているようである。「当駅」が、これこれの理由で、こういう判断をしたのだという主体性がない日本語である。したがって、これは責任を取らない日本語でもある。

(2)「・・・ば、と思います」の無責任
 例えば、「これからもっと多くの人が来れば、と思います。」これは、「来ればいい」なのか「来ればまずい」のかを断定しない日本語である。たしかに脈絡からして「来ればいい」とは読み取れるものの、そうは断定しないわけである。万が一「来ればまずい」場合が生じることも予期しているのだろうか。いつでも責任を逃れられるようになっているわけである。百歩譲っても、「来ればいくらかいい」なのか「来ればすごくいい」なのかが分からない。そういう断定を避けている日本語なのである。

(3)「・・・かな、」の脱責任
 例えば「この会はとてもおもしろいかな、と思います。」「おもしろいと思います」と言うと自分で責任をもった判断を示すことになり、断定的すぎるのであろう。責任を持ちたくない表現である。あるいは、「あるかな、」のところで、相手が「いやいや」と言える間を取っていて、相手に合わせる余地を残しているとも言える。ここでも断定と責任を避けている。

(4)「嬉しく思います」の不思議
 例えば「素晴らしい贈り物を頂き、嬉しく思います。」と言う。「嬉しいです」と言わないのである。主体の感情をあまり前面に出したくない言い方なのだろう。元は、宮中用語なのではなかろうか。しかし、英語で、I think I am glad.と言えば、変に聞こえるであろう。別の例として、「悲しいです」と「悲しく思います」の違いはどうだろうか。やはり、「悲しく思います」は自分をやや外から見ていて、自分の感情を押さえている表現であろう。

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 以上のように、断定を避けて主体をぼやかすという方向で日本語が変わってきているように思われる。しかし、その反面で、やや過剰な日本語の使い方も気になる。

(5)「確認」の頻発
 以前であれば、「見える」などで表現していたところを、「確認できる」と表現することが多い。例えば、「この映像からは、道に立っている数人の人が見えます」でいいところを、「この映像からは、道に立っている数人の人が確認できます」と言う。「確認」の意味は、辞書によれば、「そうであることをはっきりたしかめること」と言う。もちろん、いろいろな工夫をしてなんとか「確かめる」ことができたという場合には、「確認」という表現が必要である。そうではなくて、特別な工夫なしで自然に見える場合には、「確認」は過剰であろう。

(6)「認識」の乱用
 以前であれば、「・・・という考え」で済ませていたところを、「・・という認識」と表現することが増えている。例えば、「首相は、明日関係者と調整するとの考えを示しました。」と言えば済むところを、「首相は、明日関係者と調整するとの認識を示しました。」と言う。「認識」の意味は、辞書によれば、「ある物事をはっきりと知り、その本質・意義などを理解すること」と言う。本質・意義などの理解に関係ない文脈で「認識を示しました。」といういい方は、過剰な表現にすぎない。
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 こういう具合に、一方で、主語のない、責任をとらない日本語が拡がっていて、他方で、過剰な日本語の使用が目立つのはどうしてなのだろうか。言語学者の意見を聞きたいものだが、やはり、1970年代に始まり1980年代から広がってきた「ポストモダン」の影響が出ているのではないかと思われる。「ポストモダン」の言いたい事は、「言語は事実を表さない」ということである。そういう言語で作られる主張も事実を表さない。このため、どのような主張が事実ではないと批判されるかもしれないので、(1)(2)(3)のように、主張の責任を取らなかったり、断定を避ける傾向が生まれたのである。こうして、自分を背景に押しやる所から、(4)のような「嬉しく思います」なども出て来るわけである。半面、言葉は事実を反映しないとはいえ、これは事実に間違いないのだということを強調しようと、「確認」したり「認識」したりする傾向が高じて、過剰な用法に至ったのである。これは言語学者ではない者の「愚考」なのかもしれないが。

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