老樹閑話三題 その①
投稿日時:
2024/09/10
著者:
おりん
第一話 おりん
高岡市のシマタニ昇龍工房を訪れました。シマタニ工房は、寺院用の「りん」を専門に製造している工房です。「金槌」を叩くことにより金属板を絞り、丸みを整え、音を調律することで「りん」を製作しています。おりんは、木魚と同じく
という音を出す仏具の一つで、金属のお椀のような形が一般的だという事です。
毎月お経をあげてもらっているお寺さんに、おりんについて教えてもらいました。おりんは荘厳な雰囲気を作る、邪気を払いのける、仏さま、自身の先祖を招きだして下さる、との意味があります。鳴らす回数は二回とされています。一回目は優しく仏に慈悲を願うもので、二回目は少し強めに叩きます。これは自分自身の信仰と、仏への帰依の誓いを表しています。二回鳴らすのは「仏の心」と「自分の心」を一つにするという意味があります。
シマタニ工房で、おりんを求めました。それまでのおりんは真鍮製で、高い音色でチーンと鳴っていました。新たに求めたおりんには、りん棒も付いていました。最初のうちのおりんは、くぐもった音で、澄んだ音は出ませんでした。しかし今では深みがあり、長く続く強弱が、そこはかとなく消えていき、その音の余韻を楽しんでおります。
最近よく耳にする言葉に「ハラスメント」があります。相手の意に反する行為によって、不快にさせたり、相手の人間としての尊厳を傷つけたり、脅したりする事、と定義づけられています。一九八〇年代後半からセクシャル・ハラスメントとして使われ始まったと言われています。最近では、パワハラ・モラハラ・マタハラ等、色んなハラスメントを目にします。
これらのハラスメントは、主観的なものなのか、又は客観的なものなのか、私にはよく分かりません。私が受けてきた教えでは、叱られた時、怒られた時、いじめられた時には、先ず我慢する。そして我慢を越え、単に我慢する事からそれらを吸収し、乗り越える力を養おう、と言うものだったと理解して来ました。
正におりんの如くにだと思います。
打たれてへこまず。打たれ強く。打たれ強いとは、打撃や衝撃に耐える強さがあることです。批判や強い反対を受けても精神的に屈しない様に。叩かれれば叩かれるだけ、良い音色が出るおりんの如く。
逆に打たれ弱いとは。
叱られることが少なかった。叩かれることが少なかった。ストレスが溜め込みやすい。気持ちをハッキリと出せない。このような様子を言います。
昔を懐かしむは、年老いた証といわれますが、昨今の世相を見ますと、私たち世代の教えは、いささかも間違っていなかったと思わざるを得ません。
怒られる事、叱られる事、時に叩かれる事を、一概に表面的に捉えるのでなく、実質的にその真で判断すべきだと思いませんか。
第二話 三十年 今も忘れられない想い
八月十五日、午後十二時、サイレンが甲子園球場に鳴り渡る。
毎年この日、父は正座し背筋をシャキッと伸ばし、黙祷を捧げていた。
南満州鉄道勤務だった父は、戦争には行っていない。だが護国神社にはよく参拝に行っていた。
私に「中国へ行くことがあれば、奉天(現在の藩陽)へ行って、花を供えてきて欲しい」と言っていた。
「何処に供えるの」と聞くと、「駅の何所でも」が答えだった。
二〇〇八年五月、中国四川省で起きた四川地震の視察に、翌年十月、斜面防災協会の一員として中国を訪れた。父の没後十七年が経っていた。四川の成都を訪れる前、大連で南満州鉄道跡や日本にゆかりのある場所を訪れた。初めての訪問にもかかわらず、父母からよく聞かされていたせいだろうか、懐かしく、初めての大連とは思えなかった。
四川地震の災害を視察後、大連に戻った時、父が生前によく言っていた花を供えるため、同行したメンバーと離れて奉天(藩陽)へ行くことにした。大連から藩陽まで、急行で四時間、長い列車の旅だった。
中国の全く知らない土地へ、ただ一人で行く不安や、花を何処に供えたら良いのか等々、悩んでも仕方ないことを真剣に考えていたと思う。
奉天(藩陽)に着いて先ず花屋を探した。言葉は喋れず、あちこち歩き回るうちに古びた施設に出会った。
そこで奇跡的に「アジア号」を見た。よく母は「アジア号」の話をしてくれたものだ。日本の列車のように狭軌ではなく広軌で、スピードも時速150K以上で走る凄い機関車で、勿論揺れも少ない。豪華な食堂車、展望車が連結されていたとのことだった。私達は新幹線に慣れているので、何でもないように思うが、子供の頃は想像もつかず、なんと大げさなと母を疑った記憶がある。
花屋も探しだし、奉天の駅舎(丸の内東京駅そっくり)に入ったものの、さて何処に花を置いたものかとうろついた。花を隅っこにそっと置けば、不審者と疑わられ、新手の爆発物と勘違いされてもしかたない。そんな思いで暫くあちこちうろついていたら、日本のキオスクに似た店の叔母さんが、花瓶を差し出し、手ぶりで花を挿して店の奥に飾ってくれるような仕草をしてくれた。
無事、父の願いを叶えることが出来、帰りの列車から見た夕陽は、満州平野を染める夕陽と同じだろうと思った。父もこの夕陽を見たに違いない。
この原稿を書くに当たって、父の遺稿を改めて読んでみた。そこで私は永い問、父の黙祷を誤って視てきたことに気付かされる。
父から、多くの朋輩が鉄道の仕事中に命を落としたと聞かされた。当時、荒野で仕事中に大便をすると、日本人は紙で処理をしたが、現地の人々は草で処理をしていたらしい。日本人がこの界隈にいるぞと見出され、殺害されたそうである。
父の長年の黙祷は、この亡き人たちに捧げられてきたと思い込んできた。奉天駅で捧げた花は、その気持ちの表れだと思っていた。父の書き残した物を読み返すと、私の想いが独りよがりだったことに気づかされる。
父は家族五入が安全に無事に帰国できたことに感謝してきていた。蒋介石のお陰で無事帰国できたとよく言っていた。だが満鉄の社員でも満州に勤務していた人々は、それは悲惨な運命に翻弄されている。
中国残留孤児も沢山出た。しかしそれ以上に多くの満州在留邦人は、筆舌に尽きせぬ惨憺たる経緯を辿る。父が十五日に黙祷を捧げるようになったのは、自分は無事に家族揃って故郷に帰れたが、無念の涙を流した人々が沢山いることを後で知り、その人たちの無念を想い、毎年黙祷を捧げるようになっていったようだ。
友人に捧げ、そして見ず知らずの人達に哀悼の黙祷を捧げてきた理由を、奉天を訪れたことで初めて教えられた。
二〇〇九年の訪中の年に母が亡くなった。引き揚げの時一歳だった弟と翌年二〇一〇年、両親の中国での足取りを追いたいと思い、弟夫婦共々で中国を訪れた。引き揚げてから六十五年。当時の街の面影は、残っている写真から推測するしかない。母の足跡を僅かながら辿れたという思いは、少しばかりの親孝行に繋がったと思っている。
第三話 百から百から
振り返って見ると、その時その時の年代によって、物事の見方考え方は違う。それ迄に培ってきた経験とか能力によって、物事を判断し、決めてきたと思う。例えば、それまでに経験した物に似た物事であれば、容易に理解できるし決断もできる。しかし、それから先のことについて問われれば、推測することは出来ても、実体の伴わない曖昧模糊とした物しか浮かんでこない。
還暦を迎えた頃に、「六十、七十は洟垂れ小僧、男盛りは百から百から」の言葉を見た時は、なんとなく分かったような気分になっていたけれど、なんで百から百からなんだろうと思った。反って、人生の有終の美を飾るために精一杯の努力を、すべきではないのかとさえ思っていた。
渋沢栄一 四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えがきたら百まで待てと追い返せ
平櫛田中 六十七十ははなたれこぞう、おとこざかりは百から百から、わしもこれからこれから
これらの言葉を八十歳になって再び見た時は、還暦の時に感じた考え方と全く違う、何か別のもので、初めて会ったとさえ思えた。
これらの言葉の一つ一つが、しっかりと胸を打ち、すっと胸の奥に入り込む。全面的に頷ける。私のこれからの先行きに、灯がともされ、更なる生き甲斐が産まれてきている。残り少ないと分かりつつ、充実した結果にして行こうじゃないかと自分を励まし、心構えもしっかりとできつつある。
いずれにしてもその時が来なければ、真実の芯は分からないんだね‼