日本の二つの場所

投稿日時:
2024/10/10
著者:
Stray dog

 新型コロナウイルスが感染症分類の5類に移行(2023年5月8日)になって、1年5ヶ月が過ぎた。もちろん、命を脅かすこともあるウイルスがなくなったわけではない。政府が感染対策を止めることにしただけだ(厚労省の統計によれば、移行後半年間のコロナによる死者は1万6千人を超える)。政府決定の良し悪しはさておき、戻ってきたのは人、人、人の波が打ち寄せる都心の繁華街。押しつ押されつの通勤・通学電車。オーバーツーリズムと称される観光客の爆発的な増加もあってか、コロナ以前よりも都市は混み合っている印象だ。運悪く、リュックサックを担いだ乗客に四方を塞がれてしまった電車の中では、実体験にない終戦直後の買い出し列車に想いが飛んだりする。米や野菜の代わりに、現代のリュックサックの中身は何なのだろう。また、リモートワークや地方移住は5類移行後に終了したり後退したりしたと聞くが、コロナ禍が促した成長株の生き残りはウーバーイーツ以外に何があるのだろう、などと身動きのままならない電車に揺られて、埒もなく考える。

 国連人口部門(Population Division)によれば、都市圏人口の2024年度世界トップは東京で、37,115,003人を数える。ウーバーイーツが頑張れるはずである。配達されたい住人はもちろん、配達したい人だっていくらでもいるだろう。でも一方で、ウーバーイーツの配達人なんて見たことがない、という日本のもう一つの場所、過疎化する地方が山ほどある。

 この春から夏にかけて、北関東にある故郷の町を法事で何度か訪れた。線路がそこで途切れる終着駅で一両編成のディーゼルカーを降り、人気のない駅前広場を出ると、500メートル以上見通しのきく国道には見事なまで人影がない。10分も立っていれば、車が通ることもあるといった具合。都会の満員電車とは別世界が広がっている。子供の頃の記憶では、国道沿いに商店が軒を連ね、夕方近くになると買い物かごを下げた婦人たちが闊歩し、小中高生がにぎやかに行き交っていた道である。国道を横切って少し歩を進めると、町を左右に分ける一級河川にぶつかる。昭和の終わり頃に台風による大雨で氾濫し、激甚災害の指定を受けて、数年にわたる護岸工事が行われた川だ。緩やかに蛇行し、石垣を映して鯉の泳いでいた流れはコンクリートで固められてまっすぐになった。いまとなっては、工事で川筋が保護されたたというより、町を貫く傷跡のように見えなくもない。故郷の家はその工事で撤去されてなくなった。

 激甚災害の適用を受けて多くの資金が使われたようだが、町も住民もそれで潤うことは結局なかった。ヘリコプターに乗って上空からだけ被災地を視察して帰った大臣(公的機関の代表者)、住民の苦悩は他人事でしかない都市のゼネコン(資本の代表者)に、田舎町は振り回されただけだった。災害にあった多くの地方が、ひょっとしていまでも同様の経験を重ねているのかもしれない。故郷の町は、災害を逆手にとって発展することがかなわず、最盛期に3万近くあった人口は、現在1万人を割り込みそうな過疎化に喘いでいる。

 法事に訪れた寺では、新しい小綺麗な墓が増えていることに気がついた。寺の和尚によれば、もともとの住民の高齢化による仏の増加だけでなく、都会の住人が墓を建てるようになっているためだという。町には縁もゆかりもない家族からの問い合わせが少なくないそうだ。たいてい微笑みを浮かべていて感情の読めない和尚の顔に、このとき笑みはなかった。華やかな生気にあふれた都会から、老いや死や穢れが地方に押し付けられているように思えなくもないのだから、いくらお布施が増えるにしろ、和尚の複雑な気持ちは察してあまりある。

 昔話の多くが、「昔々あるところにお爺さんとお婆さんが・・・」で始まる。お爺さんとお婆さんはたいてい子無しで貧しく、竹だの桃の中だのから子を授かって、あるいは背丈一寸しかない子をお婆さんが産むなどして、その子の出世によって福をもたらされる。日本は昔々から、老人が地方に居残り、若者が都市で一旗あげる、というか、中央の権力に尽くすことがよしとされてきたのかもしれない。しかし、それがいつの時代にもあった社会傾向にせよ、たいていのものごとは程度問題である。有識者らによる「人口戦略会議」によれば、若年女性人口の激減を受けて、2050年までに消滅可能性にある地方自治体は全国の40%に及ぶとか。ますますお爺さんお婆さんは、竹や桃の中から子を探してこなければいけなくなる。

 今年5月30日には、地方自治法の改正案が衆議院で採択された。この法律は、日本の二つの場所である中央と地方を、いったいどのように結ぼうとするものなのだろう。総務大臣は具体的な事態は想定していないという。しかし、地方のさらなる中央への従属を利する根拠になりはしないだろうか。かつて地方の若く頑健な農民たちが、中央の「重要な事態」のために、どんどんと戦地に赴かされて倒れていったのと同様な流れを招き寄せはしないのか。あるいは蓋然性が高い近未来の姿と思えてしまうのだが、中央政府、そしてそこに座す政治家が仰ぎ見る米国による、沖縄のさらなる軍事拠点化に利用されることはないのか。

 無識者は、日本の二つの場所を往還しながら、とりとめなく思い乱れている。