もしかして差別かも......

投稿日時:
2024/09/10
著者:
首に旋毛

 昔から気にかかっている人がいる。

 私はその人のことを知っているけれども、その人は私のことを知らない(はずである)。とくにその人と知り合いになりたいとも思わないし、一方的な恋愛感情を抱いているというわけでもない。別に知りたくもないのだが、その人の話題は嫌でも耳に入ってくるし、映像が目に飛び込んでくるのである。

 子どもの頃に、その人のことを「かわいそう」だと感じたのが最初だったと思う。自分がその境遇だったら嫌だなあ、と素直に思った。いろんなことを周りの人に決められてしまって不自由そうなのだ。その人が「かわいそう」な状況にあるのは誰のせいなのだろう。もしかすると、自分もその周りの人の一人なのかもしれない、と、いつからか考えるようにもなった。

 その人には、他のみんなに認められているはずのことが許されない。

 たとえば、その人は、自分の生き方を選ぶことができない。生まれる前から何になるかが決まっていた。職業選択の自由なんてない。「大きくなったら何になりたい?」と聞かれたことはないだろう。本人はどう思って育ったのだろうか。私にそれを聞く手だてはない。そもそも、好きな生き方を選ぶという可能性が最初から閉ざされていたのだから、答えようがないのかもしれない。

 その人の子どもも、生き方を選ぶことができない。とくに、最年長の男の子が同じ境遇に置かれるらしい。女の子にはまだ生き方の自由が多少はありそうだ。けれども、男の子がいないとどうなるか、誰もわかっていないようである。周りの人があれこれ騒いでいる。どうして本人ではなくて周りの人が決めるのだろう。

 周りの人たちは、その人が今の境遇にいる方がいいと思っているらしい。誰も「変えよう」と言い出さない。なぜだろう。それで得をする人や組織がいるのだろうか。きっといるのだろう。私には何の得もないのだが。いや、いくら誰かや何かのためになるからといって、他人の生き方を勝手に決めていいのだろうか。まるで透明な檻に閉じこめているようではないか。見方によっては、生まれを理由としたいじめではないのか、という疑念すら涌いてくる。一般的に考えれば、親の生まれによって子の人生が決められてしまうのは、生まれによる差別にあたるだろう。

 生まれで人生が決められるのはよくない。生まれによる制限から抜け出すために、生まれによって差別されてきた人たちは苦労し、そんな制度をなくすために努力してきた。差別してきた人は、人を生まれで差別することがよくないことだと学んできたはずである。ところが、生まれで人生を完全に決められてしまう人が、この国にまだ残っている。不思議だ。

 その人は日本に住んでいるようだが、そもそも国籍があるのかないのか、わからない。戸籍はないようだが、パスポートは取れるのだろうか。いずれにしても、たまに国外へ出ている。そして日本へ戻ってきている。どうやって他国や日本のパスポートコントロールを通っているのか、気になる。

 たとえその人が日本人でないとしても、国連の世界人権宣言の第一条の対象になるのではないか。第一条にはこう書いてある。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」。これに当てはまらない、というなら、その人はそもそも地球の人ではないのかもしれない。

 その人の子どもには、ユニセフの子どもの権利条約も及ばないのだろうか。ユニセフのHPをみれば、子どもの権利条約の原則として、差別の禁止や、子どもの意見の尊重があげられている。「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えるという、子どもの最善の利益という原則もある。ただし、その子どもの「最善」を考えるのは周囲にいる人たちである。周りの人たちは、他の子どもには当然のことがその人の子どもにだけはあてはまらないと考えているようにみえる。何かおかしくないだろうか。

 その人の地位を決めている文章をみつけた。その地位は、日本国民の総意に基づくそうである。日本国民が寄ってたかってその人の人権を剥奪しているということか。私は一応日本国民のはずだが、疑問を感じている。なのですでに「総意」と言いきれない気もするが、私は国民ではないということなのだろうか。とにかく私は、すべての人が基本的人権を享有するべきだと考えている。だから、日本国憲法の第一条と第二条はなくすべきだと思う。