「貧しさ」・「貧困」について
投稿日時:
2024/06/10
著者:
マックン
貧しさ・貧困は、解決されなければならない人類共通の緊急、かつ普遍な問題であるが、真正面から取り上げるには私にとって大き過ぎるので、今まで経験してきた若干の体験や見聞を基にして私なりに考えてみたい。対極にある豊かさ、富、お金等の側面からもみていくこととしたい。
私自身の体験の原点は、太平洋戦争が終わった直後の子供時代である。当時の我が家の暮らしでは、食事については、主食は麦混ぜご飯が主だったが、時々芋入りご飯もあった。サトイモ、ジャガイモの場合はまだしも、サツマイモ入りのご飯はどうしても苦手だった。主菜は魚の焼き物、煮物が中心で、当時安く手に入ったイカの塩焼きがよく食卓に上った。たまに出てくるトンカツは脂身の方がはるかに多く、薄かったが、それでも私にとって一番のご馳走だった。恐らくこれでも当時の一般の水準からは恵まれていた方と思うと、両親には感謝せねばなるまい。
母の持っていた着物を持って、父が近郊の農家へ米や野菜の買い出しに行くといった、都会の住民がやっていた、いわゆる「タケノコ生活」も記憶に残っている。闇米に一切手を出さないで餓死した裁判官の話はこの頃のことである。
給食は、小学校に入学して2,3年経ってから始まった。マーガリン付きのコッペパン、米国産の不味い脱脂粉乳、主菜としてクジラ肉の煮物が出されたことがあったが、これは臭くて閉口した。生のキュウリがまるまる1本が出たこともあった。肝油の丸薬も飲んでいた記憶がある。食糧難と言われた時代だったが、今日まで生きてこられたのは当時でも最小限の栄養は摂取できていたと思う。衣食住の中で、貧しさは食料に端的に現れ、命の問題と直結する。
敗戦直後の社会の状況で思い出すのは、住んでいた郊外の駅近くの道路予定地に無数のバラックが建てられ、食料品や日用品を売っていたことである。売られたものは貧しいものが多かったが、皆生きるために必死である種のエネルギーが子供心にも感じられた。
S25年 (1950年) 頃には、米軍の落した焼夷弾を受けて破壊された建物の一部の壁が、町中にまだそのまま残されて立っているのを通学時の満員電車の窓から見たこともよく覚えている。地下道に屯する浮浪児達を眼にすることはなかったが、義足を付けた傷痍軍人数人が、古びたアコーデオンで軍歌を弱々しく弾いている姿を渋谷の駅頭で何回か見たことはある。これらが無謀な戦争のもたらした現象であることが分かったのはずっと後のことであるが。
S34年(1959年)、高校2年生の時、私は普通のおかず付き弁当を持参していたが、ある日、何気なく、近くのクラスメートの弁当を見たら、「日の丸」弁当だったのを覚えている。
その後、日本は高度成長期に入り、私は、直接的に「貧しさ」を体験したり、見聞することはほとんどなかった。
それが、S55年 (1980年)の暮れになって、アフリカのケニアに家族帯同で赴任することになり、そこでの滞在中にはやはり「貧しさ」を実感した。
我が家で雇ったメイドのメリーには、約1万円の月給を支給していた。他のメイドの平均と比べて若干高かったと思う。彼女の夫は妻子を残して家出してしまい、彼女は2人の男の子(中学生と小学生)を郷里のカカメガ (首都ナイロビの北方で、バスで数時間かかる) の姉さんに預けてナイロビに出稼ぎに来ていた。私の前任者のところで働いてた後、我が家に来て貰った。
庭師も雇ったが、メイドと違って日給制であった。家内が最初の日が終わって賃金を支払った時、受取りのサインを頼んだら、びっくりした顔をしたそうだ。彼の家庭が貧しくて、小学校へ行けなかったため、字を覚えられず、サインできなかった由である。そばにいたメリーが「こう書くのよ」と教えたので、翌日からはサインしてくれた。
アンボセリ国立公園を観光することになり、地理に慣れないので会社の運転手に運転を頼むことにした。現地の人達が住んでいる区画に彼の家を訪ねたら、その当時、電柱や電線が見えず、まだ電気が来ていないことが分かった。もちろんガスボンベも見えず、家では、煮炊きは石油缶で木を燃やしてやっているようだった。終戦直後の日本でバラック生活をしていた人々を思い出した。
また、ある日本人の奥さんの話だが、瓶に入った砂糖をメイドが少し取っているように疑われたので、瓶にこっそり印を付けておいたら、果たして数日後にまた減っていたため、それを咎めて辞めさせることにした。ところが、そのメイドは、辞める前に仲間を家に引き入れてカメラ数台とその他貴重品を盗んでいったという。
そのほか、ケニアではカジノが2つあり、私はパーティーからの帰途、韓国企業の経営するカジノに会社の仲間と寄ったことがある。駐車場にはベンツ等の高級車が駐車しておりお抱えの運転手は皆現地人だった。中に入ってみると、ルーレットのまわりは大部分インド人で、彼らの妻達も何人かいた。彼女達はケニア紙幣を傍らに高く積んでチップを買い、賭けているのだが、その顔つきを見ると実に面白くなさそうでまるで義務でやっているように見えた。夜遅くまで待たせている現地人運転手の賃金を考えると、そのギャップに暗澹たる気持ちを抱いたのを覚えている。
以上を踏まえて考えてみると、貧しさ、貧困は確かに人間性をスポイルする。「貧すれば鈍する」という言葉があるように、貧しいと、人はだんだんさもしい心を持つようになり、悪さをする傾向がある。
ケニアでは、窃盗や強盗のニュースを時々聞いた。貧しさ故に、また生きるために、手を染めたケースも多々あっただろう。我が家のメリーは、家内が買い物から帰って残った小銭をテーブルに置いておいても決して持っていくことはしなかった。貧しいからと言って人間性を失わずに生きている現地の人はいくらでもいた。
終戦直後に子供時代を過ごした我々は貧しさを経験したが、その貧しさはほとんど似ていたように思う。したがって、貧しさの方は共有できると言えようが、一方、日本の社会が豊かになると、その豊かさは程度によって大きな差が生じ、恐らく共有することは難しい。貧富の差が大きくなることは、むしろ人間性をスポイルすることにつながる恐れが大きい。
今回はここまでにして、今後もこのテーマを追っていきたい。