「被団協」へのノーベル平和賞授与と日本政府
投稿日時:
2024/10/15
著者:
ベチャール
2024年のノーベル平和賞が「被団協」に贈られることになったが、日本の政府・与党は「他人事」のような祝意を表している。NHKもこの受賞が日本の政府の安全保障政策に重大な影響を与えることをコメントしない報道方針を貫いている。
この中で、早くも10月12日の『産経新聞』のデジタル版は、「ノーベル平和賞、日本の安保には逆風も 政府・与党首脳は相次ぎ祝意コメント」という題の記事を載せて、〈率直に〉問題を指摘している。以下がその記事である。
政府・与党首脳は11日、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)へのノーベル平和賞授与について、一様に祝意を示した。ただ、核抑止自体を否定する被団協への平和賞授与は、米国が核兵器で同盟国を守る拡大核抑止の維持・強化に向けた議論には逆風となりかねない。
林芳正官房長官は「大変素晴らしい受賞であり、うれしく思っている」と記者団に語った。岸田文雄前首相もX(旧ツイッター)に「心からお慶(よろこ)び申し上げます」と投稿。自民党の森山裕幹事長も歓迎した。
ただ、本音の受け止めは祝意一色とは言い切れない。政府と被団協の間には、核廃絶に向けたアプローチや、核抑止力に関する考え方で、埋めがたい溝があるからだ。
日本は唯一の被爆国として核廃絶を訴えつつ、現実には米国の核抑止力に依存するジレンマを抱える。政府は米国との緊密な連携で拡大核抑止力を維持しつつ、核兵器国と非核兵器国の「橋渡し役」となることで、将来的な核廃絶を目指す立場をとってきた。
一方、被団協は核抑止政策そのものを認めておらず、政府の抑止力維持の取り組みを厳しく批判してきた。「核兵器禁止条約」に関しても、被団協が政府に参加を求めるのに対し、政府は慎重な立場を崩していない。同条約には核兵器国が参加しておらず、現実的な進展が見込めないためだ。
核廃絶を訴えた岸田氏ですら、被団協の主張からは距離を置いてきた。一方、石破茂首相は米シンクタンクへの寄稿で米国との「核共有」の検討を提起するなど、むしろ核抑止力の強化論者だ。
立憲民主党の野田佳彦代表はさっそく、首相の核共有をめぐる寄稿を踏まえて「被団協の取り組みと逆行するリーダーだ」と攻撃した。今回の授与により、国内外で核抑止力を否定する議論が勢いを増すことになれば、日本政府の外交・安全保障政策にとって必ずしも好ましいことではない。(千葉倫之)https://www.sankei.com/article/20241011-IAUA4DS7ENND5FTU5LKWPTFXSI/
これを批判的に検討してみよう。
まずこの一節である。
《日本は唯一の被爆国として核廃絶を訴えつつ、現実には米国の核抑止力に依存するジレンマを抱える。政府は米国との緊密な連携で拡大核抑止力を維持しつつ、核兵器国と非核兵器国の「橋渡し役」となることで、将来的な核廃絶を目指す立場をとってきた。》
政府は、「米国との緊密な連携で拡大核抑止力を維持」していると言うが、本当だろうか。「核抑止力」というものが成り立っているのかどうかは議論がある。まして、同盟国にまで広げた「拡大核抑止力」というものが成り立つのかは大問題である。今年の夏の広島・長崎の市長や知事の平和宣言では、「核抑止」は崩壊しているとか、成り立たないと批判されていた。核抑止は客観的には数量などで確認のしようがないもので、核抑止が成り立っているというイメージ、観念の問題なのである。それにしても、仮に核抑止論を認めるとして、はたして米国は自国以外の安全を守るべく核を使うのだろうか。この可能性が保証されないと核抑止は成り立たないはずである。なお、核抑止はかりにそれが成り立ったとしても、実際には核を使わない限りで、通常兵器による武力衝突や戦争を可能にしてきたという歴史的事実は、ここでは考えない事にしよう。
政府は、「核兵器国と非核兵器国の「橋渡し役」となることで、将来的な核廃絶を目指す」と言うが、いったいどういう「橋渡し役」を演じてきたのか。どういう努力をしてきたのだろうか。そして、「橋渡し役」を演ずることで「将来的な核廃絶を目指す」というが、どういう具合に、どういう方法で、どういうルートで「核廃絶」につなげられるのか。何も分かっていない、説明されていない。「将来的」というのは、無限の先なのではないか。たんにアメリカに追随していることを隠すための、「言葉」の遊びだけなのではないだろうか。
次に、この一節である。
《「核兵器禁止条約」に関しても、被団協が政府に参加を求めるのに対し、政府は慎重な立場を崩していない。同条約には核兵器国が参加しておらず、現実的な進展が見込めないためだ。》
政府が参加しないのは、「同条約には核兵器国が参加しておらず、現実的な進展が見込めないため」だという。ははあ。「現実的な進展が見込めない」条約には参加しないというわけである。だが、日本も参加しているにも拘わらず、「現実的な進展が見込めない」国際条約は多々ある。代表例が1928年の「不戦条約」である。「現実的な進展」をさせるために働くのが、被爆国としての日本の役割なのではないだろうか。まして、本稿では触れていないが、オブザーバー参加を拒否する理由は何か。それにしても、国際条約に参加するか否かの基準を、「現実的な進展が見込める」か否かとしたのは、いつからであろうか。国会などできちんと議論をしてほしいものである。
そして最後に、「核抑止力の強化論者」である石破首相のもとでは、《今回の授与により、国内外で核抑止力を否定する議論が勢いを増すことになれば、日本政府の外交・安全保障政策にとって必ずしも好ましいことではない》と結論づけている。
結局は、この記事の議論は、あやしい「核抑止力」を妄信しているわけである。そういう論拠に日本の行方を依存させていいのだろうか。