「本当にそうかなと考える能力は絶対に必要」―珠洲で被災した方の体験談(3)

投稿日時:
2024/07/10
著者:
インタビューと編集:ナントワ

4.二次避難、移住

二次避難先へ
 学校の避難所へ移る日には、ネットを通じて、いわゆる二次避難の段取りを進めていました。長いこといられないだろう、とりあえず珠洲を出るしかないと。行政の二次避難の動きよりも数日早くから民間の動きがありました。民泊施設とかホテルなどの物件を取りまとめて、それがFacebookのとあるところで公開されていたので、乗っかりました。最初にメールと電話でやり取りしたのは1月6日だったと思います。次の日にはもう確定していました。私たちには車もあったし、情報を得る手段もあったから、行動を起こせて、まだよかったと思います。

 8日の朝に、5人で珠洲を出ました。母と、私が助けた斜向かいの方と、別の家族の母と息子の5人でした。近所の方々で、一次避難所でもある程度一緒に動いていた人たちです。最初に私が避難先を見つけて、母に打診して、斜向かいの方と、3人で動くことを考えていました。そこへ、もう一家族の夫さんから、妻と息子の2人も同行できないかと聞かれました。避難先に聞いたらOKだということで5人になりました。

 まずは金沢へ向かいました。5時間くらいかかりました。路面状況は悪くて、道路啓開もまだ十分に進んでいなくて、迂回しなければならなかった場所もいくつかありました。その日はちょうど雪が降って、それがいい方に働いた面もあります。道に段差ができているところに雪が積もって、タイヤへのダメージも少なくなりました。けれども段差になっている場所がわかりにくくなっていて危険かもしれなかったです。

 早い段階から、トヨタが「通れた道マップ」というウェブサイトを立ち上げているということは聞いて知っていました。金沢へ向かうときには、その他に、人づての情報や、LINEで情報を聞いたりして、ルートを選びました。その前、1月3日に、おじが帰省に来ていた子どもと孫を送りに行ったのですが、能登空港のあたりでものすごい渋滞で足止めを食らって、空港に一晩滞在して、次の日に10時間かけて小松までたどり着いたと聞きました。帰ってきたのは5日か6日だったかな。

 金沢へ出る際にはのと里山街道という主要道路を必ず通ります。報道では、能登地方へ近づくにつれて被害がひどくて、何十か所も寸断されて、と言われていました。北から進んで行くと、半分よりも南側、あるいは三分の二くらいで片側二車線になるあたりからは、たしかに無事で、景色が違う。別世界でした。私たちのいたところは何だったんだろう、という浦島太郎みたいな印象でした。みんなで口を揃えてそう言っていました。

 金沢に着いて、まず衣料品店へ寄って肌着を買い、私はコンビニで加熱式タバコを買って、銭湯に入りました。いい気持ちでした。年があけてから初めてお風呂に入りました。一次避難していた方は、長い人だと2週間か3週間は入れなかった人が多いと思います。

 富山県南砺市の避難先に着いて、ぐっすり眠りました。出てきて落ち着いたんだと思います。当たり前に蛇口をひねれば水が出て、水洗トイレが使えて、シャワーを浴びれる場所で、電気があって。知らないところへ来たストレスよりも、安心の方が勝っていました。

避難先のゲストハウス「絲」
 福光のゲストハウスを選んだわけですが、この地域の予備知識はまったくありませんでした。金沢には住んだことがあって、少し落ち着かない感じがしたので、他のところを考え、そうなりました。候補物件は金沢がほとんどでした。かなりお金がかかる物件もいくつかありました。こちらのゲストハウスは1人1日300円だったかな。結果的には支援の補助が出たので自分たちで払わずにすみました。

 実際、環境がいいところだったので、およそ1か月、1月末までいました。よう散歩してました。もちろん、住まいに関してなど、できることはしていました。同行者の仮設住宅の段取りをネットでしたり。そういう事務は、ネットを通してか、被災地の役所で直接するか、どっちかしかなかったんです。リラックスして過ごしていましたが、情報を集めることはやめませんでした。石川県の新聞は買えますから、それで情報を見たり、SNSを見たりしていました。

 移住を決める
 2月の頭に1週間ほど珠洲に戻りましたが、その時にも余震が何度もありました。地鳴りが聞こえるんです。元旦の震災までは、慣れっこな感じがありました。ただ、1月1日以降、その地鳴りの意味が自分の中で変わりました。もうただ怖いんです。大きな揺れでなくても、地鳴りがすると、揺れるぞ、というような、心の中が穏やかでない状態になります。そこから出てくると、ちゃんと安らげます。自分にそういう変化がありました。

 自分の変化ということでは、あのくらいのことを経験すると、多少のことで動じなくなってしまうような、悪く言うと痛覚を失ったのに近いような感覚があります。感情が動かされるべき場面で何も思わないような。よく言えばどーんと動じないでいられるような。

 移住を決めた理由は大きく二つあります。

 一つは、珠洲に戻れない、戻るべき強い理由がない、ということです。珠洲では2年ほど前から断続的に強い地震がありました。2022年6月、2023年5月に震度6の地震がありました。地元民は半ば冗談で、一年に一回はどうせ揺れるんだから、という自暴自棄のようなことを言っていました。去年の地震の時にもかなりの被害が出たんですけど、それでも行政や民間でいろんな動きがありました。それ以前から奥能登国際芸術祭を開いてきて、2023年末時点で3回開催できました。能登、特に奥能登2市2町は過疎や少子高齢化の顕著な地域です。日本社会の課題が凝縮されているところなんです。その意味で先進的だという見方もあってか、珠洲市は以前SDGs未来都市にも選定されていました。キリコ祭りは日本遺産にも登録されました。たしか、2040年時点で人口1万人を切らない状態に持って行きたい、という動きもありました。元日の地震はとにかくそういうすべてをへし折りに来た災害だったように感じています。

 地震は起こるんだけど、あそこまでのものが起こって津波も来るというのは、誰も考えていなかったと思います。ほとんどの社会インフラも、いろんなものも全部ひっくるめてぶっ壊されたような、そんな震災でした。人的物質的な被害があまりに大きすぎて。あの日のことを自分の身をもって体験して、率直に思ったのは、この地域にどうしても残らなければいけない理由が見つからないということでした。あの日で地震活動が終息したわけではないですし。

 自分はリフォームに携わる仕事をしていました。前の地震で壊れて直したばっかりのものがまた壊れてるわけです。このお宅のお風呂、新しいのを入れたばっかりなのに家までつぶれてしまった、というのを目の前で見ました。お客さんの中で亡くなられた方もいました。同僚だった方々でまだ辞めた人はいないんですけど、辛いです。

 もう一つ、二次避難で来た町の様子と関わった人たちがよかった。これはいい方の理由です。ここでいいなと思いました。こちらが決め手だったと思います。最初は、ゲストハウスの管理者。その方がスタート地点でした。その人じゃなかったら、まったく違っていたと思います。その方のネットワークを通じて、Casa(カーサ)というコミュニティとも知り合えました。いい意味でおせっかいを焼いてくれるようなところは、私にとって非常に居心地がよく、ありがたいものでした。

5.震災に備える

避難への備え
 経験を踏まえて言うと、備えておくべきは、月並みですが、非常用持出袋ですね。家に入れない、避難生活をしなきゃいけない前提で。あるに越したことはないです。発電できる手回しラジオとモバイルバッテリーがあるといいです。

 備蓄は、家に入れるレベルの災害ならば、それはそれで大事です。だけど、家が無事でない前提も考えた方がいい気がします。

 ハザードマップを確認しておくことは絶対必要です。地域ごとに、水害だったり、土砂崩れだったり。そして、災害があったときに目指すべき場所、行くべき場所は確認しておくべきです。私の地域では、何かあったらあの高台避難所に行く、というのは家族みなが認識していました。一年くらい前だったか、津波注意報があって、その時にも地域の人がそこへ向かいました。

 避難の時に、経路が閉ざされる可能性もあります。やはり車での避難はありえないと思います。

 お金は、通帳はなくてもキャッシュカードがあればとりあえずは大丈夫です。発災直後は金融機関が柔軟に対応していたようです。カードも本人確認の証明書類がなくてもお金を下ろせたとか。地元民で顔を知っているからでしょうか。1月2週目には金融機関のATMが稼働していました。けど、実際、被災地でお金はあまり使いません。あるコンビニは1月2日だけとりあえず開けて、好きなものを持って行け、と言っていました。次の日からしばらくは閉めていました。3日か4日の結構早い段階から入荷のトラックが入ってきたお店もありました。あるドラッグストアは4日くらいから営業し始めて、電気がなくてレジも動かないので、紙に書いて計算して払っていました。

情報
 高台避難所にラジオはあったけれども、常時は聞けませんでした。小さいラジオだったので、近くにいたときくらいでした。羽田の事故はラジオで知りました。普通はネットでニュースを見聞きしていました。スマホを持っている人はみなそうでした。輪島の火事はYouTubeで見たと思います。スマホを使いこなせていない人は、人と話して情報を得るしかない状況でした。 

 あとで金沢の知り合いに会ったときに、私のX(Twitter)での投稿が情報を得るために頼りになったと言われました。一般の報道だと、正確で細かい情報は入ってこない。けど、私の投稿がその点でありがたかったというのです。命は大丈夫ですとか、通信が復活したとか、トイレがきついとか、電気が来たとか、自衛隊車両が来たとか、ヤマザキパンが大量に来て避難中のQOLが上がったとか。

 盗難は、うちに関してはなかったです。直接に自分の家が被害に遭ったという話も聞いていません。

 被災者の間で噂はありました。情報の扱い方は大事だと思いました。いろんな情報が真偽交えていっぱい出てきて、ちゃんと判断できる人とできない人がいるんです。知り合いのLINEでも、明らかにデマだと思えることが書いてあったりとか。たとえば、これこれの県外ナンバーのこういう車両が来てるから気をつけようとか。実はそういう車両はいないんだけど。それから、1月1日に穴水で自販機をこじ開けて中のものを取り出して盗んでいった集団がいたという噂があり、気分悪かったのですが、結果的には自販機を管理している方だったそうです。情報を流す側に立ったとしても、受け取る側に立ったとしても、扱いは難しいけど、細心の注意を払うべきだとすごく思いました。

 当然ながらSNS上の情報もそうです。こういうときにはすごく出てきます。パニックを起こしてる人が、鵜呑みにして、右から左に流しやすい。本当にそうかなと考える能力は絶対に必要だと思いました。