我国開発の旅客機が世界の空を飛ぶ日が来るか?

投稿日時:
2024/12/10
著者:
半呆け老人

 1903年、ライト兄弟が人類初の動力による飛行機の飛行に成功してから約120年。この間の航空機に関する技術の飛躍的進歩で、飛行機は今や我々に取って身近な存在として、政治・経済・文化等あらゆる面でなくてはならないものとなっている。

 ライト兄弟は、鳥の様に空を飛びたいとの夢の実現の為に飛行機の開発に取り組んだのではない。かれらは売れる飛行機を作って一攫千金の夢を見たのである。

 しかし結局かれらは売れる飛行機の為の改良に疲れ果て、飛行機ビジネスから撤退するが、正に飛行機ビジネスは、魅力的ではあるが、膨大なリスクと一旦成功すれば莫大な利益をもたらすエキサティングで血湧き肉躍るスリリングなゲームと言われている(ジョン・ニューハウス『スポーテイゲーム』1988年)。

 飛行機の開発では、少しでも早く、少しでも遠くへ、少しでも沢山のお客を乗せて、燃費良く運ぶ為に、機体重量の軽減に取り組み、そして騒音や揺れが少ない快適な飛行機になるように多くの技術的課題に挑戦する。だが、中でも最大の難関は安全性だろう。

 車と比べると、飛行機事故の死亡率は、桁が幾つか違う位、飛行機の死亡率は小さいと言われるが、飛行機の場合、一旦事故が起きると乗客・乗員の殆ど全員が死亡する悲惨な事態が起きる。この為飛行機がお客を乗せて飛べる様になるためには 各国の当局の厳しい検査を受けて型式証明書(所謂TC―Type Certificate)なるものを取得しなければならない。このTC取得に技術者は心血を注ぐのである。

 この様に、民間旅客機は商業運行出来るまでには沢山の難関を突破しなければならず、開発に莫大な開発資金と時間がかかり、その開発は熾烈な競争にさらされるビジネスである。

 他方、航空機の部品は、自動車の3万点に対し300万点とも言われる膨大な部品で構成され、中小企業を含めた幅広いサプライチェーンで支える構造となっており、航空機産業は、各国の経済が依拠する重要な産業である。この為、国家が自国の航空機開発に有形無形の支援を行う、正に国策事業でもある。直接的な財政支援、大統領自らのトップセールスも稀ではない。

 我国では、太平洋戦争下、零式艦上戦闘機(終戦間近に特攻隊に使われたゼロ戦)は、一時は世界の戦闘機の頂点に立つ位の技術力を誇った時もあった。しかし敗戦で、昭和20年にGHQによって、日本にある全ての飛行機が破壊され、航空機の研究・設計・製造が全面禁止された。

 戦後の我国の航空機産業は朝鮮戦争期に米軍機の修理から始まったが 昭和27年のサンフランシスコ講和条約で飛行機の製造の禁止が解除されたものの、この間の「空白の7年」に欧米の航空機技術は飛躍的に進化していて、その後の我国の航空機技術力は大きく水をあけられた。

 しかしその様な状況の中でも、敗戦からの復興に自信を取り戻しつつあった我が国は、航空機産業こそ産業全体の技術力・競争力の向上に大きく貢献する重要な産業であると位置づけ、まずは官民共同で日の丸飛行機の開発に挑戦した。また民間(主として三菱重工)でも小型ビジネス機の事業に乗り出した。さらに同社はその後約20年後に再び本格的な旅客機の開発に挑戦した。

 しかしそれらのプロジェクトはいずれも飛ぶ事は飛んでも、採算面でも技術面でも悉く失敗し、あるいは開発半ばで撤退し、戦後80年に至るも我国ではビジネスとして成功した民間機はない。

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 筆者は社会人となり会社人生の殆どを航空機生産の現場で過ごし様々な経験をし、正に飛行機ビジネスの難しさと悲哀を体験してきた。では、失敗の本質は何か。将来これらを克服し我国の飛行機が世界の空を飛ぶ日が来るのか。そしてその為には何が必要なのか。以下、筆者の考えることを述べてみよう。

《YS-11の失敗》
 昭和31年、当時の通産省(現経済産業省)主導の元、「日本の空を日本の翼で」と半官半民の国策会社が設立され、約60人乗りの中型輸送機YS-11が開発された。戦前の戦闘機開発を支えた技術者が参画して、昭和37年に初飛行に成功した。

 YS-11は、2年後にはアテネから東京オリンピックの聖火を日本に運び、国内定期路線に就航すると共に海外にも順調に販路を拡大した時期もあった。だが、結局事業として失敗して、182機を作りながら 昭和48年に生産を終了した。官主導の特殊法人ゆえの杜撰な無責任経営体質で、360億円もの累積赤字を抱え国策会社は倒産した。赤字は税金で補填された。

 これは、飛行機は日の丸でも、事業性意識の希薄なおんぶに抱っこの日の丸親方経営が失敗の原因だと考えられる。

《小型ビジネス機事業の失敗》
 YS-11の開発が行われていた昭和35年頃から、民間でも三菱重工が、主として北米で販売されている社用・自家用の小型ビジネス機MUー2の開発を始めた。昭和40年代の、販売当初は、順調に販売機数を伸ばし、小型ビジネス機の中ではベストセラーとも言われ、累計762機を生産した。だが、結局膨大な累積赤字で、後継のMU-300と共に、昭和62年にはビジネス機事業から撤退した。

 筆者は この小型ビジネス機を組み立てていたテキサス州の南のサンアンジェロと言う人口7万人の町で3年弱のあいだ撤退事業に従事したが、全ての後始末が終わり、工場のハンガーでの「さよならパーテイ」の寂しい記憶は消えていない。

 ここで指摘できるのは、一つには、国内での事業経験も無いまま、北米で未知の民間機事業に乗り込んだ為に、まずは競合機に打ち勝つ為の採算より販売優先の経営方針、加えて二つには、例えば昭和46年のニクソン・ショックで変動相場制移行での急激な円高による急速な赤字の拡大等事業環境の変化に耐えうる経営能力の未熟さ、そして根本的には民間機事業は膨大なリスクを伴うとの認識不足だろう。

 因みにホンダは、平成27年に納入を開始し今年1月末で250機を納入、現在も小型ビジネス機事業を継続しているが 毎年400億円の赤字を継続していると聞く。今後の動向が注視される。

《三菱スペースジェットの開発断念》
 MU事業の撤退にも拘わらず、撤退後約20年後に、再び三菱重工は中型旅客機三菱スペースジェットの開発に取り組んだ。YS11と同様、経済産業省の航空機産業再生への強い期待の元、開発主体として三菱重工が選ばれ、平成15年から開発が始まった。12年後の平成27年に初飛行にこぎ着け、国内外の航空会社から最大447機を受注したにも関わらず、開発開始から20年間、国費500億円を含め約1兆円の開発費をかけながら、TCの取得の目処が立たず、令和5年に開発を断念した。正に我国での民間機事業の難しさを示した典型である。

 経産省は補助金を投入する以上、まず国土交通省航空局によるTC取得に固執した。しかし審査する側には、メーカー以上に経験やノウハウが皆無で、知識の習得に膨大な日時を要し、漸く三菱と航空局が進めてきた設計の試作機を米国に持ち込んだが、米国の審査員から不合格の判定を下され、この為最初から飛行機を作り直す位の設計変更がなされた。この間のコストの増大と日程の遅れで、受注のキャンセルも続きTC取得の目処も絶たず、結局開発断念に追い込まれた。

 此処には 政府が関与する補助金事業の弊害と基本的には世界的に益々強化されている民間機の安全性審査に対する三菱重工の技術的な知見と対応する技術力が余りにも無かった事が致命的だったのではないかと思う。

 

 以上の三つの事例に共通している失敗の原因の一つは、世界と日本の技術力の差であろう。飛行機は飛ばすだけなら、極めて簡単で、新幹線に羽を付ければ舞い上がるが、安全で採算性のある民間機を開発する技術力と知見が未だ熟成されていない事だと思う。

 二つ目は補助金等で民間の事業に関与する弊害を国は自覚すべきだろう。金は出しても口は出さないと言う事は、国税を投入する限りあり得なく、此処には民間の自由な事業経営や特に厳しい開発を阻害する事になる。

 三つ目は、これが根源的な問題だが、航空機開発には膨大なリスク即ち莫大な開発資金と開発期間が必要である事を最初から認識し、始めた以上社運をかけ成功するまで、トップは命をかけ退路を断ち不退転の決意で取り組む覚悟が必要では無いかと思う。

 「カモメに飛ぶことを教えた猫」(ルイス・セブルペダ作)は劇団四季で演じられたファミリーミュージカルだが、黒猫が仲の良かったカモメが瀕死の状態で産み落とした卵をあらゆる困難を乗り越えふ化させ育て上げ、飛ぶ事を知らなかったカモメを飛ばす事に成功した物語が比喩的である。 

 この猫を見習えば、我国の開発した民間機が世界の空を日がいつか来ると信じている。