思い出した人、そして戦争と平和
投稿日時:
2024/05/10
著者:
ストレイドッグ
国木田独歩に『忘れえぬ人々』という、10 分ほどで読めてしまうような短い小説がある。 中学生の頃、タイトルに惹かれて読んで、ただのゆきずりの人についてさらりと書かれてい たものだから、みごとに肩透かしを食った気分になった。
でも実際の生活では、歳を重ねるにつれ、忘れられない人よりも、忘れていたけれどふと した拍子に思い出す人が多くなるようだ。今回はそんな、最近、思い出した人のことから 少々-。
小学校の 3 年生から 4 年生にかけての一時期、よく近所の空き地で三角ベースの野球を して遊んだ。空き地といっても、広めの物干し場くらいの小さな空間だった。非力な子供の スイングでさえ打球がよそへ飛んで行ってしまって、特にホームベースの真向かいの家に、 よくボールが転がり込んでしまった。その家に、しばらく、というか 50 年以上も思い出す ことのなかった人が、ひとりきりで暮らしていた。
路地のような狭い庭に面して6畳と4畳半の二間が開けている、そんな平屋だった。たい てい畳の上に仕立て中の布地が広がり、顔も体も細い女性が布地を縫ったり、ミシンを踏ん だりしていた。なぜ「たいてい」と言えるかというと、ボールを取りに行くとよく、彼女が 麦茶や菓子をご馳走してくれて(僕らは喜んで野球ごっこを中途で放り出したものだ)、中 の様子を窺い知る機会が何度もあったからだ。その人は飛び込んでくるボールのことも、う るさかったに違いないはしゃぎ声も叱ることはなく、いつも明るくにこやかだった。
彼女が戦争未亡人であることを、少し後になって母から聞かされた。夫が出征したの は、結婚してすぐのことだったそうだ。昭和 42 年から 43 年にかけての思い出だから、終 戦から 20 年以上がたっていた(太平洋戦争が起点になると、なぜか西暦ではなくて元号 を用いたくなる)。戦争は「ゼロ戦黒雲隊」とか「あゝひめゆりの塔」とかの、テレビや 映画の世界の話としてしか受け止められない子供だったけれど、現実に接していた明るい 人に遠くて暗い戦争の影がさしたせいだろうか、驚きとも悲しみとも言葉にできない感情 に心が満たされたことを思い出す。
小学校高学年になると遊ぶ場所が広がって、その空き地からは足が遠のいた。中学生になってしばらくして、彼女がどこかへ引っ越していったことを知った。仕立ての仕事だけでは暮らしていけない時代になっていたのだろう。
戦争と平和という言葉は、磁石の S 極と N 極のように正反対なものとして使われるけれ ど、実際の世界ではどうなのか。平和に見える時代と社会に暮らしていても、どこかのいつ かの戦争にわれわれがその影を負わないですむ時代があったのだろうか。また、誤解を恐れ ずに言えば、戦争中の国にだって、断続的にしろ平和な時間があるはずだ。親戚のジャーナ リストの娘が、ロシア軍の攻撃にさらされるウクライナ東部へ取材に行って何より印象的 だったのは、人々がふつうに食事をし、職場や学校に通い、冗談を言って笑い合う日常の姿 だったそうだ。世界は戦争と平和が浸透しあっている、と思う。
ただ、現状はどうあれ、戦争の浸透部分を限りなく縮小する望みと、そのための努力を放 棄してはいけないという出発点に、右の人だろうが左の人だろうが、少なくとも表向きは賛 同するに違いない。問題は出発点から先のことだ。
ぼくの三角ベース時代、昭和 42 年に「武器輸出三原則」が政府方針として示された。そ れが法律でもない、曖昧な方針に過ぎなかったにせよ、戦争の道具を売ることはつつしもう という雰囲気を政府も社会も、その頃は共有していたのではなかったか。それから 47 年経 った平成時代の第二次安倍政権下、これに代わって、「防衛装備移転三原則」なるものが閣 議決定された。平和貢献のために、防衛装備という名目の武器を海外移転、つまり輸出でき るという方針転換である。平和という言葉を人質に、戦争の浸透を許容する、戦争のお手伝 いをしてもいい、ということらしい。そして、さらに 10 年後、拙稿をしたためている今日、 令和 6 年 3 月 26 日の午前、次期戦闘機の海外輸出を可能にする「防衛装備移転三原則」の 改定が閣議決定された。
「平和を守る」、「国を守る」、「愛する家族を守る」と、あれこれ守るための戦争を為政者 はしばしば聖戦と呼んできた。昭和の日本の聖戦は、誰かを何かを守ったのだろうか。あの やさしかった人の夫は、戦場に倒れることで妻を守ったといえるのだろうか。彼女がどんな 人生を歩んだのか、ぼくは知らない。ただ、戦争が世界に浸透する領域を広げつつあるいま、 思い出したあのやさしかった人のことをもう忘れずにいよう、と思う。