小説の中の歴史―事実と創作の交錯―

投稿日時:
2024/06/10
著者:
ディメンシア

 「歴史家は事実の世界に住み、小説家は創作の世界に住んでいる」といえば、歴史家は納得するだろう。しかし、小説家はどうだろうか。

 芥川龍之介の「西郷隆盛―赤木桁平に与う―」(ワイド版岩波文庫358『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ』所収,岩波書店,2013年)はそのひとつの反応だろう。

 維新史を研究する史学科の学生が資料探しに京都に行き、その帰りの列車で老紳士に出会う。老紳士はその学生が西南戦争を卒業論文のテーマにしていると聞くと、歴史家が暦の編纂者(almanac-maker)にすぎないと断言し、多くの誤伝的歴史資料に惑わされないようにと忠告する。そのひとつの例として、ほとんどの歴史資料が認めている西郷隆盛の城山戦死説は偽りであり、現に本人がこの列車に乗っているというのである。実際に、一等車の座席で寝込んでいる白頭の肥大漢の相貌は、幼時より見てきた頭の中の西郷隆盛の顔と一致した。混乱する学生に「歴史資料を信じるか、それとも自分の目を信じるか」と老紳士は迫る。

 でも、「よく似ている人間もいるでしょう」と苦し紛れに反論する学生に対して、老紳士はあの肥大漢は彼の友人の医者であることを告白し、自身の名刺(有名な歴史学者と推測される)を差し出して、次のように言うのであった。

 「僕はピルロンの弟子で沢山だ。我々は何も知らない。いやそういう我々自身の事さえも知らない。まして西郷隆盛の生死をやです。僕は歴史を書くにしても嘘のない歴史なぞ書こうとは思わない。唯如何にもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。僕は若い時に、小説家になろうと思ったことがあった。なったらやっぱり、そういう小説を書いていたでしょう。あるいはその方が今より良かったかもしれない。とにかく僕はスケプティックで沢山だ。君はそう思わないですか。」

 この引用文の歴史と小説を入れ替えて読めば、芥川龍之介の皮肉の声が聞こえる。極端に言えば、「物書き」である限り、歴史家といえども小説家と同様に歴史を創作しているのではないか。歴史的資料を取捨選択し、歴史的経緯を組み立てているときに主観性が入り込んでしまうのではないか。懐疑主義の態度を常に取り続けるべきでないのか、と。

 松本清張『小説東京帝国大学 上巻、下巻』(ちくま文庫,筑摩書房,平成20年)はとりわけアカデミックな歴史家に厳しい。本書は、哲学舘事件、七博士の対露開戦論、学制改革問題、国定教科書の南北朝問題、大逆事件などに絡んで蠢くさまざまな人々の間の軋轢を描くことによって、明治後期から大正期における天皇制絶対主義の国体形成の動きを明らかにしようとする。

 東京帝国大学が国家運営の基幹的人材の育成を目的に設立された限り、その卒業生は政財界の中枢を占め、その権威的性格は国家の利益あるいは政府の方針などにより守られる。際立つのは、教授たちの保身術である。哲学舘事件(採用した倫理学教科書が「動機善ならば帝王の弑逆も可なり」の思想を植え付ける可能性を批判される)や久米教授事件(「神道は祭典の古俗」という研究成果が皇室の尊厳を傷つけたと批判される)では多くは無言を貫き、国定教科書の南北朝問題における喜田教授(南北朝並立論)の辞任に対してさえ反発することは少なかった。しかし、対露強硬論の戸水教授の処分や山川総長の辞任に対しては、大学の独立・学問の自由をかざして強く抗議する。松本清張が「曲学阿世の徒」と決めつける所以でもある。

 明治後期から大正期における天皇制絶対主義の国体形成の動きを明らかにしようとする本書の目的からして、登場人物は東京帝国大学の関係者ばかりでなく、明治の元勲、当時の首相、文部大臣、文部官僚、政治家、社会運動家(国粋主義者、自由民権主義者、社会主義者、無政府主義者、キリスト系博愛主義者など)、政財界を遊泳する市井の怪人や妖婦まで広がり、その多彩なエピソードは東京帝国大学を包み込む。

 表題を「小説東京帝国大学」にした理由について、松本清張は「あとがき」で、「勝手な書き方をしてきた小説である。・・・・・史的事実の叙述に、想像による描写の世界が圧迫された。」と述べ、膨大な歴史的資料を前に困惑する小説家の気持ちを吐露している。「勝手な書き方」とはいいながら、常に懐疑心を維持し、どの歴史的資料を取捨選択するか、それをどう解釈するか、細心の注意を払っていたのだろう。

 最後に、短く、阿刀田高『ものがたり風土記』(集英社,2000年)にも触れておく。

 浜口雄幸総理大臣が右翼に撃たれたとき、苦しい息の下で「男子の本懐」と言った証拠はない。秘書官が記者会見で誘導的に言わされたのかも知れない。しかし、阿刀田高は、小説家なら、軍部の猛反撃を承知の上であえて軍縮に踏み切った彼の本心を「男子の本懐」と表現しても良いのではないか、と言う。

 以上、わずかな例であるが、小説の中で歴史がどのように扱われているかを見てきた。「歴史家は事実の世界に住み、小説家は創作の世界に住んでいる」と短絡的に考えるべきではない。