『二十四の瞳』(壺井栄著・角川文庫・2007年)を読んで思ったこと

投稿日時:
2024/08/10
著者:
暗中模索

 今年は戦後昭和期を代表する女優高峰秀子の生誕100周年ということをテレビで知った。高峰が主演した『二十四の瞳』(壺井栄原作・木下恵介監督・松竹映画・1954年)(この映画が封切られた当時、多くの人が鑑賞されたと思う。)のDVDビデオと原作が手元にあることを思い出し、両方に目を通した。久し振りにこの作品を味わったが、改めて考えさせられることが多く感想をここに記してみたい。

 壺井栄(1899年~1967年)は小豆島生まれの小説家、童話作家で、『二十四の瞳』は代表作の一つである。

 作者は人間愛に満ちた作品を多く残したことで知られている。『二十四の瞳』も、この作家らしい教師と教え子の温かい師弟愛に満ちた小説という印象が強い。確かにそれはこの作品の大事な構成要素であるが、戦争、貧困、思想の弾圧にも鋭い批判的な眼差しを向けている。

 1952年(昭和27年)に書かれた『二十四の瞳』は、1928年(昭和3年)から始まり戦後間も無い1946年(昭和21年)で終わっているが、この時期は戦争一色であった。

 主人公の大石先生は、1928年(昭和3年)4月小学校の分教場に赴任、1年生男子5人、女子7人、計12人の担任となった。

 この小説の舞台となった瀬戸内海の小島の村といえば、「風光明媚で詩情ゆたかな風景」を思い浮かべるが、それを壺井は「瀬戸内海べりの一寒村」と表現している。

 その村に先生は自転車に乗り洋服で颯爽と登場し、素朴な村人の話題をさらった。自転車も洋服も珍しかったのであろう。自転車は5ヶ月の月賦で買い、洋服は着物がないので母親のセルの着物を黒く染め自分で縫い仕立てたのであった。

 小学校では、修学旅行に行けない子、学校をやめ働かざるをえない子、弁当箱が買えない子など貧しい家の子供が多かったが、先生はみんなに精一杯愛情を注いだ。中には、小学校をやめて奉公に出たが肺病になり、実家に戻って物置で孤独死した女生徒もいた。

 思想弾圧も強化された時代であった。

 ある日近くの町の小学校の先生が生徒に反戦思想を吹き込んだとして、警察沙汰になるという事件が発生した。「治安維持法」違反の容疑である。翌日の新聞は、「純真なる魂を蝕む赤い教師」と報じた。生徒の信望を集めていたというその先生は、思想弾圧の犠牲者となり、復職は叶わなかった。

 大石先生は出征する教え子に「生きてもどってくるように」と声をひそめ伝えた。教頭からは「あかと評判になっている」と注意されたこともあった。

 戦争が終わりこの島にも漸く平和が訪れたが、教え子の男子は3人が戦死、1人は視力を失い除隊、女子は1人病死、1人は島を離れ戻ってくることはなかった。

 大石先生は戦前に結婚し(夫も戦死)一旦退職したが、終戦翌年の4月元の小学校に復職した。

 ある日、病死の女子の墓、戦死した男子の墓を訪れたが、帰らぬ人となった生徒の墓前で、先生は涙を流しながら何を思ったであろうか。

 翌月、先生を囲む会が催されることになった。目が見えなくなった男子生徒も含め参加する教え子は男子2人、女子5人、計7人で、過酷な激動期を経て「二十四の瞳」は「十四の瞳」に減った。

 会が始まるとみんな思い出話を語った。宴もたけなわになったころ、1人の女子が学芸会で歌った「荒城の月」を歌った。もう一人の女子が彼女の背にしがみついてむせび泣いた。

 物語は余韻を残し、ここで終わっている。きっとみんな泣いたり笑ったり、時間の経つのを忘れ語り合ったことであろう。

 大石先生は教え子達に囲まれながら、数は減ったがどの子も数々の困難と闘いながら、なお瞳の輝きを失わずに成長してくれたことをこの上なく嬉しく思ったに違いない。

 ***

 ここで、大石先生と「二十四の瞳」が生きた日本の状況を、銃後の国民生活を中心に考えてみたい。

1. 戦時経済体制の確立と崩壊

 1938年(昭和13年)4月、「国家総動員法」が公布された。これによって経済と国民生活のいろいろな分野にわたって、政府はいちいち議会の決議をへることなく、統制を加えることができるようになった。政府は絶大な権限をにぎって戦時経済体制を確立したのである。翌年7月「国民徴用令」が実施され、一般国民が軍需産業に動員されるようになった。民需品の生産・輸入・消費は厳しい制限をうけ国民の消費生活は切りつめられた。生活必需品に切符制、公定価格制等各種の施策が実施され、政府の統制はしだいにきびしくなった(笠原一男『詳説日本史研究』山川出版社 1997年 415~416頁)。

 1941年(昭和16年)12月に勃発した太平洋戦争は総力戦となり、銃後は前線に対し人的、物的資源を可能な限り供給し続けることが求められた。戦争遂行を最優先とするシステムに組み込まれた国民は、暮らしが窮乏していった。戦争が激化し、激しい攻撃を受け生産力、輸送力は著しく低下、戦時経済体制は崩壊し終戦を迎えたのである。

2. 思想の弾圧

 1925年(大正14年)4月「治安維持法」が成立。共産主義活動を取り締まることが目的だったが、のちには様々な反政府活動を弾圧するため利用された。

 1940年(昭和15年)10月、「大政翼賛会」が発足。のちには産業報国会・大日本婦人会・町内会・部落会(隣組)などを含む諸団体を傘下におさめ、太平洋戦争において、政府の意志を国民に伝え、国民を広汎に戦争遂行のために動員する上で大きな役割を果たした(笠原一男 前掲書 420頁)。

 1941年(昭和16年)小学校を「国民学校」と改称し、国家主義的な教育が進んだ。

3. 銃後の女性たち

 2021年(平成3年)8月19日放映のNHKスペシャル『銃後の女性たち~戦争にのめりこんだ〞普通の人々〝~』を録画していたので、今回改めて見た。戦争の熱狂の中で、「銃後の普通の女性たち」が戦争に関わっていく様子が記録されていた。そこで印象的だったのは、次の三点である。

(1)  婦人会は割り当てられた徴兵適格者を募るため、各家庭を回った。旧松尾村(長野・飯田)では多数の若者を戦場に送り出し、その結果193人が帰らぬ人となった。

 大石先生は、出征する教え子に向かい声をひそめ、「名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ」と言った。男子の教え子5人は全員軍隊に入り、3人が戦死、1人が視力を失い除隊、無事戻ったのは1人だけだった。大石先生の願いは届かなかった。

(2)  ある女性教師は、自分の軍国主義教育を恥ずかしく思ったこともあって戦後二度と教壇に立つことはなかった。

 大石先生は、若い頃母に「つくづく先生いやんなった。やめよかしら」、「まい日まい日忠君愛国…」、「なんでお母さんは、わたしを教師なんぞにならしたの」と愚痴をこぼし、母を困らせた。大石先生は悩みながら教師を続けていたのである。

(3)  90代の女性は「戦時みたいに偉い人の言うことに従ってばかりいたので、あのようなことになってしまった。そうならないように今は世の中の動きに目を凝らし、自分の考えを持つようにしている」と述懐していた。

 大石先生は、教え子や国民を不幸にする戦争を批判し続けた。その信念は、いつの時代でも決して変わることはなかった。

 

 現在も世界で戦争が続いており、終息の気配は見えない。女性や子供の被害も連日伝えられており、前線と銃後の区別がない近代戦のむごたらしさを痛感する。「大石先生」や「二十四の瞳」は、今の世界の状況を知ったらどう思うだろうか。