プーチンよ、トルストイの声を聞け!

投稿日時:
2025/01/10
著者:
イラクリオン

 内村鑑三は、「トルストイ翁を弔ふ」で「翁の忌み嫌いひし者に二箇ありたり、其一は戦争なりき、其二は教会なりき、彼は戦争を嫌いしが故に戦争を賛(たす)けし教会を嫌ひしなり。」と述べている(1)。弔文にしてからが、無教会派の内村の面目躍如といったところである。

 レフ・トルストイの「戦争嫌い」はつとに知られているところで、かれの不朽の名作『戦争と平和』(1869)には戦争の悲惨さ、愚かしさ、虚しさ、残酷さが余すところなく描かれている。この本は2020年2月にロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来、日本でもよく読まれているという。戦争勃発後すぐに「プーチンよ、今すぐ読み直せ」という社説も現れた(『東京新聞』2024.6.6)。

 ところでトルストイの反戦思想が日本で広く知れ渡るようになったのは、かれが1904年2月の日露戦争勃発後にイギリスの『ロンドン・タイムズThe Times』紙(1904.6.27)に「Bethink yourselves〔悔い改めよ〕」という論考を発表したことによる。その反響は大きく、例えば社会主義系の幸徳秋水らが発行する『平民新聞』(第39号、1904.8.7)では、「トルストイ翁の日露戦争論」の見出しで全文が訳載され、「…其平和主義博愛主義の立脚地より一般戦争の罪悪と惨害とを説き、延て露国を痛罵し、日本を排撃する処、筆鋒鋭利、論旨生動、勢ひ当る可からず…」と絶賛されるほどであった(2)。

 トルストイは、日露戦争に際して戦争反対の意志を世界に向かって発信し、日本でも大きな反響を呼んだが、かれがそれまでにすでに日本国民に向かって同様の意志を表明したことはさほど知られていない(3)。  

 そのメッセージの一つが、『国民之友』(第19巻、第325号、1896〔明治29〕年12月12日に「特別寄書」として掲載された「終極は近けり」である。

 そこで、いま掲載の経緯を簡単にたどりながら、トルストイがこの論稿に込めた反戦の訴えを紹介してみたい。

 トルストイの論考が『国民之友』に掲載された1896年12月と言えば、その2年前に日本が日清戦争の結果、大陸進出の足掛かりをつかんだものの、三国干渉にあい、とりわけロシアに対する敵愾心を募らせていた時期である。ロシアへの激しい憎悪は、「臥薪嘗胆」というスローガンすら生んだ。『国民新聞』『国民之友』を発行して、言論界を牽引してきた民友社の創設者徳富蘇峰も日清戦争を境にして、かつての自由民権・平民主義の衣をかなぐり捨て、反露主義・帝国主義に舵を切ったひとりである。

 その蘇峰が、1896年5月に英語の達者な若い社員深井英五(後に日銀総裁)を伴い、1年にわたる欧米周遊の大旅行に出た。かれの旅行の目的は、日英同盟を締結する環境作りを主としていたが、ロシアでは敵情視察を兼ねて各地を回り、また世界的に有名なトルストイに会うことだった。蘇峰らは、10月8日にヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ね、1日を共に過ごした(4)。その様子は、蘇峰の「トルストイ翁を訪ふ」〔10月13日にオデッサで執筆〕に詳しく描かれている〔掲載は『国民之友』第324号、11月28日〕。

 この記事によれば、トルストイは蘇峰に「日本が何故に、後れ馳せに、欧羅巴の真似をなし、武を黷(けが)し、兵を増すかを嘆じぬ。〔翁は〕徴兵の不正不理を説きぬ」。そして、その例としてオランダの一青年の兵役〔徴兵〕拒否の意思表明について語った。そしてトルストイは、自分はこの件に関して論考を書き、世界の世論に兵役がいかに不正であることを訴えるつもりだが、「君能く小西君をして、此文を訳せしめ、以て君の新聞に掲載するを得んかと。」述べた(5)。

 またトルストイは、「〔余に対し〕露人なりと問はば、余は否と答へん、余は世界の市民なり。将た独逸なり、日本なり、来りて露国を侵略するも、余は於て痛痒相関せず、余は露国の強大なるよりも、寧ろ弱小を望む」と愛国主義も国防も否定し、世界市民であることを強調した。

 蘇峰は、反戦思想を熱心に説くトルストイに対して、自分とは思想を異にすることを明言し、対話は、両者の見解の隔たりの大きさを確認したものになったが、トルストイが書いたロシア語の論考をキエフ〔またはオデッサ〕から日本の民友社に送り、『国民之友』に掲載したことで、トルストイとの約束を果たしたのである(6)。

          ***

 さて、この論稿は、オランダの一青年の、兵役拒否理由を述べた書簡内容の紹介と、自身の解説から構成されている。まず冒頭で、トルストイは、「ワン=デル=ウェル」〔Van der Weer:ファン・デル・ヴェール〕という名の青年が、〔今年〕1896年に国民軍に入隊する命令書を「ミヂルブルク」〔Middelburg〕地区国民軍司令官「ヂルマン、スネイデル」〔M.Herrman Schneider〕から受け、それに対して送付した書簡を紹介する。書簡の題は「殺す勿れ〔Thou shalt not kill.〕」というものであった(7)。

 その書簡の内容は、おおむね次のようである。

①    私〔「ワン=デル=ウェル」〕が忌み嫌うのは、自分が希望もせず、理由もなくただ命令に従って、良心に悖(もと)って殺戮を行なうことである。

②    ひとたび兵士となれば、無実の人を標的にして、発砲命令を実行せざるを得ない。

③    同胞同士が殺し合う理由はない。

④    国民軍は、社会秩序を守ると言う。だがそれは富者の道具と化して、生存権を要求して立ち上がる労働者を銃殺すという、許されない行為に出た。

⑤    司令官が私の心を挫き、思い通りに、ただ命令に従うよう国民兵として育成する理由が私には分からない。

 そして「ワン=デル=ウェル」は、「前陳の理由、殊に号令のもとに人間を殺戮候儀を忌み嫌ひ候により、拙者儀は国民軍の兵士たることを堅く御断申上候、就ては、仮令如何様の儀あるも服役せずと決心ある国民軍の服装兵器等御送付無之様願上候。司令官閣下の万福を祈る。頓首」と、その書簡を結んでいる。

 トルストイは、この書簡の内容がいずれも至極まっとうな兵役拒否の理由を示し、そこに国家権力に対して一個人で刃向かい、「仮令如何様の儀あるも…」と厳罰をも覚悟した若者の毅然とした勇気、決意を見たのである。

 論考の後半で、今や社会的実践の作家・思想家であるトルストイは、兵役を拒否するこの一青年の決意表明がもつ重要性を当時の日本国民を含めた全世界の人々に伝えるべく、書簡の内容を読み解くのである。それはおおよそ次のようにまとめられるだろう。

①    宗教・民族の枠を超えた戦争拒否の意志を貫く行動を促すこと。

②    真のキリスト教徒の反戦の影響の大きさを自覚すること。

③    権威者の言を信じないこと。

④    他人の命令で殺戮を行なうのは、人格・人間性に反する行為であること。

⑤    軍隊組織は非人間であること。

⑥    「謙譲を説き、悪に反抗せず、隣人を慈しみ、敵を愛するという誡命を守るべき者が同胞を殺戮する目的を持つ兵士になること」に疑問をもつこと。

⑦    真のキリスト教徒は、いずれの時も兵役を拒否し、現在においてもまた兵役を拒否すること〔真のキリスト教徒たれ〕。

⑧    真のキリスト教徒は、いつの時代でも少数だが、一人が兵役を拒否すれば、兵役に就く数十、数百万の心を乱すのに十分であること〔民衆の力を信じよ〕。

➈  大司教・聖職者や学者は兵役をキリスト教の本義に叶うと説く。したがって多くの人はキリスト教徒を自認しつつ、殺人者の群れに入る。そうした権威・権力者に騙されないこと。

⑩    宗教・民族に関わりなく、いやしくも人である以上は、兵役を拒否すること。

⑪    他人の命令で殺戮を行なうのは、人格とは相いれないと自認すること。

⑫    軍隊組織は、外見は強力なようだが、実際は残忍、不徳義を極めた現在の殺人集団である。

⑬    かれ「ワン=デル=ウェル」は人類一般が認める真理を理由に兵役を拒否する。

 そして、トルストイは、「ワン=デル=ウェル」の兵役拒否の行動が、それに続く者の増加を促し、実際に兵役拒否者が増えれば、「軍隊必用論者は、異口同音に、…戦争は無智の致す処、不徳義極るものなりと公論するに至るべし。事ここ至らば今日の所謂軍隊なるものは滅却して、唯だ一の憐れなる紀念を止むるに至らん。而して其時は甚だ遠からず。」と結論づけるのである。

          ***

 こうしてトルストイは、「ワン=デル=ウェル」の「決意表明」に自身の日ごろの反戦思想的な発言を重ね合わせて、日清戦争の勝利に酔い、三国干渉によって屈辱感を味わい、次の敵はロシアだ、と息巻く日本国民に兵役拒否の思想を訴えたのである。トルストイは、日本の軍備増強政策を憂いて、あるいは警戒して、また国際的な孤立を回避させるように、さらに日本国民に人道・人権の観念を植え付けることを意図していたようにも思える。

 もちろん、自ら「世界市民」と任じるトルストイの兵役拒否=反戦の発言は、ただ日本国民にだけでなく、全世界の人々にも向けられていた。その意味で彼の言動は、世界的規模の反戦思想の普及、戦争反対の運動を促進させるものであった。

 その際、かれが強調したのは、「ワン=デル=ウェル」の国家権力に対する明確な拒否声明が示しているように、個人が道徳的実践力と、戦争に反対する強固な意志をもちうるということであった。一個人の正しい行動が、多くの人を動かすことに期待を寄せたのである。

 こうした一個人が放った「殺す勿れ」のメッセージは、現実におびただしい数の兵役拒否者、あるいは脱走者、亡命者を生み、それは、国家=民族=領土を防衛するという戦争の大義名分をいとも簡単に破壊する力を見せつけることになる。

 まさにトルストイが、「事ここ至らば今日の所謂軍隊なるものは滅却して、唯だ一の憐れなる紀念を止むるに至らん。而して其時は甚だ遠からず。」の世界の到来である。

 トルストイが戦争にはやる当時の日本国民や世界の人々に放った反戦思想の詰まったこの論考を、今そのままロシア国民に、とりわけ『戦争と平和』を愛国主義の発露と誤読するプーチンにぜひ送り返すことにしたいものである。

(注)

(1)『内村鑑三全集』18、岩波書店、1981、17頁。トルストイ没は、1910.11.20.なお、本文の〔 〕内は、本稿の筆者の簡単な補足説明。

(2)柳 富子『トルストイと日本』早稲田大学出版部、1998、21‐22頁から引用。

(3)管見の限りでは、これまでこの論考は、杉井六郎『徳富蘇峰の研究』法政大学出版局、1977、322頁や太田健一『小西増太郎・トルストイ・野崎武吉郎―交情の軌跡―』吉備人出版、2010、124頁、でわずかに紹介されているに過ぎない。阿部軍治『〔改訂増補〕徳富蘆花とトルストイ―日露文化交流の足跡』彩流社、2008、331‐332頁には、蘇峰がトルストイから直接聞いたこの論考についての概略が紹介されている。「トルストイ翁を訪ふ」(『国民之友』第324号、11月28日)を参照。

(4)彼らがトルストイに会えたのには、トルストイと親交のあった小西増太郎(1861‐1939)の存在が大きかった。1887年にロシアに留学した小西は、1892年に日本人として初めてトルストイに会い、以来親交を重ね、共同で『老子道徳経』をロシア語に翻訳するまでになった。蘇峰はトルストイとの面会に際して小西の紹介状を携えていたのである。

(5)トルストイが蘇峰に渡した論考の完成は、蘇峰との会談の前々日である〔自署は、露暦9月24日(西暦10月6日)〕トルストイは蘇峰の人となりをあらかじめ知ったうえで、書いておいたのだろう。なお、蘇峰は、この度の訪問について、9月30日にサンクトペテルブルクから小西の紹介状を同封して、トルストイに手紙で知らせている。

(6)その論考をロシア語から日本語に翻訳したのが、前述の小西である。その英語版は、民友社発行で、深井が編集する英文雑誌THE FAR EASTにThe End is at Handの題で掲載された(Vol.1 No.11,20.Dec.1896,pp.11-17)。その翻訳文は、宣教師のアーサー・ロイド(Arthur Lloyd:1852-1911)で、小西の日本語訳からの英訳であった。

(7)なお、「論考」中の欧語は、前掲のTHE FAR EASTからの引用。