『ニコライ遭難』(吉村昭著・新潮文庫・1996年)の読後感

投稿日時:
2024/05/10
著者:
暗中模索

 吉村昭は現場、証言、資料を丹念に取材するノンフィクション作家、歴史小説家である。文体は冷静、緻密であり、小生の好きな作家の一人である。最近上記の著書を読んだので、「司法権の独立」という視点で思うところを記してみたい。

 1891年(明治24年)5月、国賓のロシアの皇太子に、警備の日本人巡査津田三蔵が突然サーベルで襲いかかり負傷させた大津事件は、教科書にも載っており有名である。

 『ニコライ遭難』は、吉村がこの事件を綿密に調べ上げた力作と言えよう。事件の主人公は、時の大審院院長児島惟謙である。後述の通り、児島は行政府の激しい干渉から「司法権の独立」を守り、「護法の神」とまで賞賛された。

 明治政府は、強大な軍事力を有する大国ロシアの報復を恐れた。加えて、ロシア皇太子の来日前に「ニコライが日本人に危害を加えられた場合、日本の刑法には、それに適した法律はないが、日本政府は必ず皇室罪を適用する」という日露政府間の合意があった。明治政府が死刑判決を下すよう大審院に猛烈に働きかけた背景には、そのような事情も潜んでいたのである。児島は政府に毅然として抵抗、結局大審院は津田を無期徒刑(無期懲役刑)に処した。

 当時は(旧)刑法第百十六条「天皇・三后(太皇太后、皇太后、皇后)・皇太子ニ対シ危害ヲ加へ、又ハ加エントシタル者ハ死刑ニ処ス」(皇室罪)があった。他方、(旧)刑法第二百九十二条に「予メ謀リ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ノ罪ト為シ死刑ニ処ス」とあり、未遂の場合は「刑ニ一等又ハ二等ヲ減ズ」と定められていた。

 従って、皇室罪を適用しない限り殺人未遂犯を死刑に出来なかった。津田の犯罪を皇室罪に認定するか否かが司法府と行政府の間で激しく争われた。児島院長は百十六条に明記されている天皇という称号は日本独特なもので、皇室罪は日本の皇族を想定しており、外国の皇族には及ばない、従って死刑判決は法の趣旨に反する、と主張したのである。児島は担当外だったが、上司としての立場を利用し担当裁判官一人ひとりに働きかけ説得、遂に主張を実現した。児島が「護法の神」と呼ばれる所以である。

 ところで、児島は今日的な視点ではどう見られているのだろうか。現在の憲法では、「司法権の独立」は次の様に定められている。

1.司法権が立法権・行政権から独立していること。
2.裁判官が裁判をするにあたって独立して職権を行使すること。
(芦部信喜著 高橋和之補訂『憲法』第七版 岩波書店 2019年 368p)

 旧憲法でも三権は分立していたが、新憲法では上記2.「裁判官の独立」が加わり、「司法権の独立」が強化されたのである。(旧憲法を調べてみたが、「裁判官の独立」は明示されていない)。

 法学のテキストを何冊か読んだが、児島のこの言動には上記「司法権の独立」の1.は守ったものの、2.には違反する、という考え方がいくつかあった。

 他方、当時の強力な藩閥政府の圧力から司法部の独立を守るため児島はこのような行動をとったのであり、緊急避難的性格を持っているので違法性は阻却される、という見解もある(芦部信喜著 高橋和之補訂『憲法』第七版 岩波書店 2019年 369p)。

 小生も圧倒的な藩閥政府の力を考えると、法の正義を貫くには児島の言動は已むを得なかったように思うと同時に、激しい圧力に屈せず主張を貫き通し、意見を実現したことには驚くばかりである。なお、当時児島の司法部内での行動が問題視された形跡は、小説、テキストを読む限りあまり窺えない。

 余談であるが、ナチ統治下の国会放火事件(ナチ党員が国会に放火しておきながら共産党員を犯人に仕立てた事件)で、被告人を有罪にすることを拒絶した勇敢なドイツの裁判官がいたことも紹介しておく(団藤重光著 『法学の基礎』(第2版)有斐閣 2019年 206p~207p)。

 日本の決定を知ったロシア皇帝が「判決に満足している。」、と伝えられ、政府は大いに安堵した。しかし外務大臣、内務大臣をはじめ数人の大臣が交代、この事件の責任を取った。

 世論はどうであったか。裁判の直後は国の安全を優先させるべきで、津田に皇室罪を適用しなかった裁判官は許し難い、と非難する者が多かった。しかし、ロシア皇帝の反応を知ると自然とその声も消えた。

 ニコライ皇太子はその後(1894年)皇帝(ニコライ2世)になり、日露戦争で日本に敗れ、二月革命で退位、十月革命後の1918年家族と共に銃殺され、帝政ロシア最後の皇帝となった。

 津田三蔵は、「ニコライの来日目的は日本を侵略するための調査」と信じ犯行に及んだ、と言われている。判決後釧路集治監に送り込まれ、1891年(明治24年)9月急性肺炎により獄死した。

 1889年(明治22年)大日本帝国憲法が発布され、その2年後この事件は起きた。法を漸く整え、法治国家の道を歩み始めたばかりの近代日本に国難が襲いかかったのである。大津事件は司法、政治、国際安全保障が密接に絡み合っており、複雑な様相を呈していた。しかし、児島は多くの困難を乗り越え、司法の正義を守り抜いた巨人と言えよう。

 読み終えた後、「現在この国の司法はその役割を問題なく果たし、正しく機能しているのだろうか。」等、様々なことを考えさせられた次第である。


短信

「吉村昭書斎」
 2024年3月、井の頭公園駅から歩いて2,3分の線路沿いに、「三鷹市吉村昭書斎」という小さな記念館がオープンしました。吉村の本をすべて並べた書棚の部屋と、吉村が使っていた書斎の実物を移した部屋があります。井の頭公園の散策の折に訪れるのもいいと思います。   (ベチャール)