コンプライアンスの難しさと自民党裏金事件
投稿日時:
2024/07/10
著者:
半呆け老人
今は漸く少なくなりつつあるが、昨年の暮れから今年にかけて一時は連日のようにテレビ・新聞で喧伝された自民党の裏金問題に関わる一連の報道で、今は遙か昔、忘却の彼方に忘れ去られた、ある記憶が忽然と蘇ってきた。
《企業の世界のコンプライアンス問題》
バブルが崩壊し、「失われた20年」とも言われる長い不況下の日本経済の中で、金融危機がピークを迎えた1990年代後半、日本で4位の規模の山一証券が損失隠しで破綻し(1997年)、当時の野沢社長が「社員は悪くない、悪いのは全て社長である私」と号泣したシーンは、当時繰り返し報道された。日本の金融危機を象徴する場面として、脳の奥底にしまわれていた様だ。その後も日本長期信用銀行(1998年)、債権信用銀行(1998年)の破綻が続いた。
また2000年に、集団食中毒事件を起こした雪印乳業の当時の石川社長が、記者会見でマスコミから執拗に質問され、「私は寝ていないのだ」と発言したが、これもテレビで繰り返し報道されて批判を浴び、かれは二日後に辞任した。当時は企業でコンプライアンス違反が発生した時のマスコミ対応の仕方が必ずしも十分熟成されておらず、この記者会見は無様と言うか、後生に長く記録される事となった。
その後の長い不況下の中、企業間の競争が激化し、利益至上主義のもとで、企業の中には生き残る為には不正もばれなければよいとするものがいて、世の中を甘く見た企業の不祥事が多発した。三菱自動車の大規模なリコール隠し事件(2000年)、海外でも粉飾決算を繰り返した巨額不正会計を行ったエンロン事件(2001年)等である。これ以後、社会的対応を誤れば「築城三年落城一日」の例えのごとく、会社存続さえ危ぶまれる事態となる事に各社とも重大な危機感を持って、コンプライアンスの徹底に取り組んだ。
もとより、コンプライアンスの本質は、単に法令遵守にとどまるものではなく、社会的良識や規範・倫理を守る事であり、社会から信頼されない会社は存続出来ないという考えであり、企業の社会的責任とは何かを問うもので、内部統制システムの強化、内部告発・内部通報制度の整備、コンプライアンス教育等によって、不正を許さない風土を醸成し、各企業ともコンプライアンス体制の確立を企業経営の重要課題と位置づけるようになった。この取り組みはその後も現在も休むことなく継続されている筈である。
ところが、この間パワハラ、セクハラ等多数のハラスメントなる言葉が世の中に定着し、これらのハラスメントがコンプライアンス違反に直結する事が多く、その後もコンプライアンス違反は尽きる事がない。過労を是認する会社の体質のもと、上司により異常な長時間残業を強制されたパワーハラスメントで新入女子社員が過労自殺に追い込まれた痛ましい電通事件(2015年)はその典型である。そのほか、近年では、保険金の不正請求で大きく社会的信用を失った中古車販売大手のビッグモーター事件(2022年)、そして同社と特に深い関係にあった損保ジャパンの白川社長の引責辞任等は記憶に新しい。
不思議なのは、コンプライアンス違反は大企業に多く、中小企業では余り聞こえないことである。中小企業は危機感がより強いのか、トップダウンによる社内での徹底が容易なのか、ここにコンプライアンス違反防止のヒントがないか掘り下げてみる価値がありそうである。いずれにしても何故この様にコンプライアンス違反はなくならないのだろうか。
《政治の世界でのコンプライアンス問題》
自民党は1988年に発覚したリクルート事件の反省を踏まえて、1989年に「政治改革大綱」を決定した。大綱の冒頭で、「いま、国民の政治不信、及び自民党批判の中心にあるものは、①政治家個々人の倫理性の欠如、②多額の政治資金とその不透明さ等で、なかでも、政治と金の問題は政治不信の最大の元凶である。そして今こそ事態を深刻かつ率直に認識し、国民感覚とのずれをふかく反省し、国民の信頼回復を果たさなければならない」と誓っている(http://www.secj.jp/pdf/19890523-1.pdf)。
この様な反省にも関わらず、その後自民党議員が政治と金を巡る不祥事によって、最近の5年間だけでも河合夫妻を含む5人の逮捕者を続出し、そしてついに今回の裏金問題が発覚した。
この裏金は一説によれば、20-30年前から慣習として存続されてきた様である。
長い自民党支配、特に安倍一強が続く中で、自民党は、不正もばれなければよいとのおごりのもと、パーテイを含め企業から集めた莫大なお金を選挙対策資金として長い間世間の目から隠して存続させ続けてきた。自民党につきまとう政治と金の問題の極地である。正に自民党の体質と倫理性の欠如そのものを露呈した重大なコンプライアンス違反を続けてきた訳である。
そしてこの事は残念ながら、企業に於いても政治の世界に於いても法令遵守が如何に難しいかを示している。企業の場合は会社の為、政治の場合は党の為、それぞれが業績向上と党勢拡大の為に違反を繰り返すのである。池波正太郎の鬼平犯科帳のテレビ映画の冒頭のナレーションに言うように「何時の世にも悪は絶えず」なのか、それとも「赤信号皆で渡れば怖くない」からなのか。
しかしここで気づくべきは、両者には根本的な違いがあると言う事である。その一つは、企業の場合は例外を除き私利私欲による違反は少ないが、政治の場合は私利私欲による違反が殆どである。権力の維持そして金欲と利権に対する執着、そしてその元は国会議員であり続けたいと言う業欲の深さである。
もう一つ、企業と政治での不祥事の違いは、企業の場合は、その企業の世の中からの退場ですむが、政治の世界就中政権与党でのコンプライアンス違反は、我国の政治不信、結果として民主主義の破壊に直結するということである。
では、どうすれば、いいのか。先ず第一に、政治家は有権者によって選ばれる。政治家のレベルは有権者のレベルを映すと言う。この事は政治家の劣化は国民の劣化を示すと言う事になる。政治の世界でのコンプライアンス違反をなくすためには、全ての国民が無自覚怠慢から目覚め、主権者としての責任意識をしっかりと持つ事しかない。
第二には、マスコミの報道のあり方を是正することである。最近のジャニーズ性加害事件の報道に見られるように、各社とも問題を認識しながら視聴率向上の為に、ジャニーズの有名タレントを使い続けてきたわけだが、ここには、コンプライアンスの遵守より視聴率アップと言う企業の業績向上が優先されてきたことが例示されている。もっと重要なのは、政府への忖度がある。企業の不祥事に対しては、マスコミは当該企業の責任者たる社長が退任するまで執拗に報道するが、政治の世界、特に時の政府に対しては、電波法による政府の許認可権に忖度して報道各社に差はあるものの概して厳しい批判を自ら封じ込めている様に思う。
国境なき記者団の発表によれば、2024年度の報道自由度ランキングで、日本は180カ国・地域中70位、先進7カ国では最下位である。民主党政権時代の2010年の11位が最高で、自民党政権、就中安倍一強の長期政権下では、報道機関への巧みな圧力と政権にすり寄る報道でこのランキングは低下したのである。
政治の世界でのコンプライアンス違反をなくすためには、前述のように国民の意識の変革が第一であるが、マスコミも政府の権力に対する監視機能をより以上強化することが必要であると考える。
《コンプライアンスの難しさ》
筆者が会社員時代であった遙か昔のことであるが、現業部門の人間がある談合事件で逮捕された事で、株主オンブズマンによって、法務部門を所管していた筆者を被告人として株主代表訴訟が提起された。訴因は現業部門で決してコンプライアンス違反がおきない様に内部統制システムを構築する義務があるにも関わらずその義務を果たさず、結果として会社の信用を失墜させ莫大な損害を会社に与えたというものであった。4年に亘る長い裁判の結果、和解が成立して、筆者はかなりの金額を会社に支払った。長期間の裁判継続は精神的にも費用面でも耐えがたいものがある。
その時代は、前述した雪印事件等、コンプライアンスの重要性が認識されて各企業がその対策に必死に取り組んだ時代であり、筆者も責任者として全身全霊で取り組んだ。しかも入社以来40数年、ひたすら会社の業績向上に尽くしてきた自負がある身が会社に損害を与えたとの和解判決には、未だに納得出来ず、会社生活最大の不運と嘆くと共に、難癖を付けられたとの思いは今も残る。コンプライアンスの難しさを思う由縁でもある。
なお余談だが、今は色んなハラスメントと言う言葉が定着しているが、筆者の会社員時代は、ハラスメントのハもなく、当時が今の様な時代だったら、オレは間違いなくパワーハラスメントで訴えられていたと思うと、誠に幸運な会社人生だったと思う。
人生の幸運・不運はあざなえる縄の如しと、達観出来るのも加齢の賜である。