「いつになったら止まるんや」――珠洲で被災した方の体験談(1)
投稿日時:
2024/05/10
著者:
インタビューと編集:ナントワ
能登半島地震をきっかけに珠洲から移り住んで来られた方と知り合いになった。気さくな方で、地震のときの行動、避難所での生活、移住の決断などについて、いろいろと話してくれた。この貴重な経験を記録に残しておきたいと考えて、あらためてインタビューをお願いしたところ、快く引き受けてくださった。2024年4月18日午後に、休憩を挟みながら3時間ほどお話をうかがった。その後、録音を文字に起こし、テーマごとに整理して編集した段階で、本人に読んでもらい、加筆修正していただいた。大地震と津波による被害、避難先で起こりうること、支援者たち、情報の扱い方、震災への備えについてなど、今後の参考になることも多いと思う。これから3回に分けて連載する予定で、今回はおもに震災当日の体験と自宅の被害についてのお話である。
1.震災当日
揺れ
2024年1月1日16時06分に一度目の揺れがありました。私は昼寝をしていました。いつもより大きめの揺れでした。2年ほど群発地震が続いていたので「ああまたか」という感じでしたが、スマホも鳴り出すので、自分の部屋がある棟から新しい棟に移って、テレビをつけました。家にいた90歳の祖母もやってきました。震度5強だったという最新状況を見ていたところに、16時10分の最大震度7(珠洲市の観測記録は震度6強)の揺れがきました。揺れの長さの体感としては1分程度でしたが、尋常ではない揺れです。私は立っていることができずに倒れ込みソファーにつかまりましたが、そのソファーごと1mくらい前後左右に揺さぶられました。祖母は食卓の下で悲鳴をあげていました。「いつになったら止まるんや」という感じでした。
外へ
揺れが収まったところで、恐怖と不安のなか、祖母を連れて自宅から800mほど山手方向にある高台避難所の特別養護老人ホームへ向かうことに決めました。津波もたぶん来ると思いましたし、防災無線でも津波警報の発令で逃げるように言っていたと思います。暖かい上着を持たせて、自分もベンチコートを部屋からとってきました。不安そうな祖母を玄関から外へ連れ出しました。外へ出ると、避難所へ向かうために通りへ出るための道が倒壊家屋でふさがっています。何本か道があるのですが、見渡す限りそこら中で建物が倒壊しており、近所の人たちとどこを通って逃げるか話したのを覚えています。つぶれた建物の瓦の上を歩いていかないといけない可能性も頭の中をよぎり、祖母が歩けるか心配でした。
救助と避難
そこへ、小学生の高学年くらいの子がやってきました。自分が見たことがない子なので、おそらくは帰省していたのでしょう。倒壊家屋に巻き込まれている人がいると言います。私の自宅の斜め向かいに住んでいる75歳の女性が、玄関のところで挟まれて出られなくなっていました。励ましながら、ご親戚の男性と一緒になんとか引っ張り出すことができました。10分くらいかかったでしょうか。
ご本人の話では、1回目の揺れで2階から下りてきて、玄関の風除室の手前くらいで大きな揺れが来てしまったとのことです。不幸中の幸いか、倒壊に巻き込まれたタイミングの居場所が玄関先だったから、体が挟まれていても体自体は見えていて、触れる位置にいました。上半身が少し動かせるくらいの状況でした。倒壊による柱や梁などの瓦礫を掻き出し、背中に載っているものをどかしたりしながら上半身を抱え上げて、引っ張り出しました。ご親戚の方が1人だけで助け出すことは難しかったかもしれません。
その間に祖母は近所の方に連れられて避難所へ向かったようで、現場付近にはもういませんでした。高台避難所のあるエリアの方へ向かうには橋を渡らないといけません。その橋がズレて段差が生じていて、タクシーが引っかかっていました。「これ無理だから諦めて、乗客の方と一緒に避難所へ歩いてください」と運転手に話しました。
橋を乗り越えて100-200mほど行くと、避難所へ上がる坂があります。そこまで行ってようやく助かったと感じたのを覚えています。祖母もそこにいました。高台避難所は特別養護老人ホームで、坂を上がり切る手前あたりで職員の方が車いすを持ってきてくれていました。先ほど助け出した75歳の方とは坂を上がった所の駐車場で再会できました。無事避難できたことを喜びあった記憶があります。
歩いている間に見た感じでは、街の半分以上の家がつぶれていました。揺れが起き自宅を出て避難する時点では、自宅の3棟はまだ倒れたり大きな被害が出ておらず無事でした。
高台避難所と津波
スマホが案外つながって、X(Twitter)やLINEを確認できたように記憶しています。父母が一緒に市内の別の場所へ出かけていたのですが、母と電話で話し無事を確認することができました。祖母が助かったことを連絡できました。
避難所には発災時点で250人から300人くらい集まっていたように聞いています。橋より向こう側(高台避難所へ行くために橋を渡らず行けるエリアの人たち)の家の人たちのなかには、車で来ている人も多くいました。
津波は直接は全然見ていません。何メートル級の津波がいつ来るかわからないし、とにかくあの揺れでは東日本大震災クラスの津波がまず脳内をよぎり、とても不安で、下りて行くことは私にはできませんでした。高台避難所から見に下りた人もいました。遡上してくる川の様子を映像に収めていました。
ずいぶんあとになって知ったのですが、結果的には、一番高い津波が到達したのは16時47分頃だったようです。テレビニュースの映像で、その老人ホームの車のドラレコが津波を映しているのが流れていて、翌日以降片づけに通った自宅の掛け時計が止まっていた時間とそのドラレコの時間が一致していたためです。
救助活動
倒壊した家屋に取り残されている方がいる、という情報も夕方から夜の時点で結構入っていました。地元消防団の同じ地域で、70歳代のご夫婦が建物に残されているはずだということで、声がかかりました。18時か19時くらいに一緒に行きました。
私は、そのために坂を降り街方面へ向かうこと自体がとにかく怖くてしょうがなかったです。そもそも避難時に眼鏡がありませんでした。昼寝をしていたときに揺れが起きたため、かけて来なかったのです。裸眼視力は0.2か0.3くらいで、一応歩いたり生活において最低限の視力はなんとかあるのですが、そもそもその救助のときには暗くなっていたので心配でした。いつ津波がくるかもわかりませんし。
助けに行ったのですが、私は建物の中まで入らず、他の方が入りました。2名が挟まれていたのは建物のかなり奥の方で、桁か梁が載っていたようです。チェンソーはあったのですが、物を動かし身体を引っ張り出すためには重機が必要だという判断で救助をあきらめざるを得ませんでした。そのときには2名はなんとか受け答えもされていたそうで、本当に歯がゆい思いをしながら引き返しました。
夜9時か10時くらいに再度メンバーが行って毛布を置いてきたけれども、翌日には冷たくなってしまっていたそうです。近隣では、斜め後ろの家に住む90歳代のご夫婦も亡くなったというのを聞いています。なお、ご遺体を建屋から出すことができたのは1月5日か6日頃だったそうです。
一部のメンバーは、その当日夜さらに1kmくらい離れたところに別の方を助けに行きました。そこでは救出に成功したとのことでした。
あとからわかったのですが、中学時代の恩師が父親と2人で倒壊家屋に長いこと取り残されていたそうです。建物の一階がつぶれたけれども二階にいて、助け出されたそうです。
避難所
避難所となったのは高台の特別養護老人ホームでした。鉄筋コンクリート三階建てで、建物に対する安心感はありました。自分が建築関係の仕事をしているのでそう判断ができたのかもしれません。山を切り開いた高台にある場所で、地盤もそれなりに強いところだそうです。余震は1日夜から2日明け方までずっとひっきりなしにあって、揺れるたびに不安に感じている人もたくさんいました。
当然ながら雑魚寝状態でした。玄関ロビーで。建物は広いけれども、石油ストーブによる暖を供給できるということで、あのスペースだったのだろうと思います。
市の仕事をしている父は、深夜にやって来てきました。市内の状況や、まだ見つかっていない人の話をしていました。
父母は先述の通り発災時に車で出かけていて、市内の少し離れた町で地震に遭いました。家屋倒壊と道路の寸断により自宅方面の町へ行くことができず、少し離れた町(通常時自宅から20-25分程度の場所)の知らない方のお宅の敷地内に車を置いて、歩いて市役所(そこから車で通常時10-15分程度)へ向かったそうです。
2.自宅の状況
発災翌日
2日の午前中に、母と、前日に助け出した75歳の方と3人で各々の家を見に行きました。変わり果てた自宅と変わり果てた地域を目の当たりにしました。その日は、津波や倒壊の恐れがあったので、現場を見るのと貴重品を探すくらいですぐ戻るようにしていました。翌日以降も何度も通いました。
まず、自分の車のキーレスが反応しなかったことから諦めてガラスを割って、以前にかけていた眼鏡を取り出しました。車は一応付近にあったのですが、駐車場所から10mほど動いてました。母の車が見つからなくて、駐車場所より20mくらい離れた場所にひっくり返っていました。そもそも車庫が完全に消えていました。基礎が残っているだけ。車庫にあった12本(車3台分)のサマータイヤが、家の周りを探しても2本しかありません。空気が入っており水に浮くものですから、あとは引き波にさらわれたのかもしれません。結果的に、家に置いてあった車3台は使えなくなりました。父と兄が車で出かけていたので、その2台が助かりました。
家に入って父母の財布や通帳を探したのですが、衣装持ちの父の服が散乱していて、そのうえ海からの漂流物やゴミもものすごい量があって、手間取りました。後の日の探索も含めて、最終的に家族全員の貴重品関係はほぼ見つけられました。私の財布は避難するときに車から取り出していました。
家
家は3棟が連なって建っていました。そのうち、一番古い1棟が倒壊しました。私がいた棟です。聞いたところでは60年か70年くらい前の建物です。2階が1階を押しつぶす形で、片側は完全に落ちて、もう片側は1階部分が少しだけを残し、斜めに壊れていました。その隣の棟の屋根は引きちぎれるように壊れていました。壊れた棟がつぶれた荷重のせいでしょう。真ん中の棟の棟瓦はみな落ちています。もう一つの棟は、5年ほど前に建てた新しい家です。ぱっと見は大丈夫でした。後日レーザーで測量したところ、傾いていませんでした。それでも1階のものはすべて浸水でダメになりました。土台以外(基礎に乗っかっていない部分)の床がすべて落ちています。どれも、余震か津波のせいでここまで壊れたのだと思います。あとからわかったことですが、津波は床から2m10cmの高さだったようです。床は水の重みでどすんと落ちたのでしょう。
いわゆる全壊や半壊という表現は、罹災証明にひも付けて出されるもので、建物ではなくて世帯ごとに認定されます。第一次の被害状況調査では、とても多くの件数を急いで調べた(全数調査)ので、うちは外観から半壊と判断されました。それが第一次の罹災証明でした。第二次の調査では中まで入った調査だったので、全壊の判定が下りました。
新築したときに薪ストーブを設置したのですが、塩水をかぶったので、もうサビが出て使えないようです。
救い出せたもの
私は10年くらい前まで、2番目に古い建物の2階に住んでいました。そこに昔の服があり、着れそうなものを持ち出せました。2階なので波はかぶっておらず、揺れにより散乱しているのみでした。新しい棟の2階はすべて兄の部屋になっていたので、兄のものも同様に比較的無事だったと思います。
当時私が使っていたものは、倒壊した一番古い建物の中にありました。そのため、ほぼ100%のものが建物の下敷きになり、諦めざるを得ませんでした。去年新しく作った眼鏡も見つかりませんでした。海から少しだけ離れたエリアにあるおじの家は一応無事で、探索にはそこにある道具を使うことができました。おじと探索に行ったときに、ギター1本を救出しました。完全にはつぶれなかった側のキッチンの窓からおじが入って行って、ハードケースの金色の金具が見えると言うのです。引きずり出すことができました。土埃を被っていましたが、波には浸った様子がみられず、ケースも外傷がなく、中のギターも無事でした。ギターが見つかったことは大きな希望になりました。後日、テニスラケットも助け出せました。だいたいの位置がわかっていたので、屋根をはがして、垂木を切って、中に入りました。ラケットは波をかぶっていたのですが、グリップとストリングを張り替えれば使える状態です。
父が乗っていた車は、私ともう1人とで、3日に取りに行きました。リアガラスが割れて、小さな穴が空いていました。状況はわからないのですが、何かが飛んできたのでしょうか。盗難ではない感じでした。動かすことはできました。
車で避難所まで戻るのが大変でした。まず、車を置いていた敷地と道路が10cmくらいずれていました。浄化槽の蓋とマンホールの蓋を取って、段差を乗り越えるための橋にしました。道中はそこらじゅうが段差で、タイヤの道にするためにいろいろなところでコンパネを置かないと進めませんでした。
次回へ続く