「あの味を忘れることはないでしょう」――珠洲で被災した方の体験談(2)
投稿日時:
2024/06/10
著者:
インタビューと編集:ナントワ
3.1週間の高台避難所生活
スマホと電気
1月2日の夜にスマホの電波が止まり始めたのを覚えてます。そのタイミングの少し前あたりに、NTTの関連会社に勤めて珠洲を離れているはずの友人が現れました。よう来たな、と思います。スマホの電波がもうじき止まると話してくれました。そもそも電気が全部止まっていて、基地局では停電時にバッテリーで駆動するようになっているので、そのバッテリーが切れたら止まると。移動基地局が来たのは1月4日か5日くらいでした。キャリアによって差がありましたけれど、それまでは非常に不安定で、完全に入らない状態も長くありました。水や電気と同じくらい情報が大事だと思いました。
電気は止まっていたのですが、その老人ホームの施設長が、私物の発電機とドラムリールを出してくれて、潤沢ではないけれどガソリンがあって、それを使って電気を起こしました。それでスマホの充電ができました。自分はその充電に関してとりまとめをしていました。
最初、ガソリンの発電機を使う前は、カセットボンベを使う発電機を回しました。あれはすぐ切れるんです。2時間くらいかな。何度も換えなければいけませんでした。
避難所となった老人ホームには、幸運なことに、備蓄の灯油がかなりあったようです。それで、暖をとるのには困らなかったです。ずっと灯油ストーブが焚かれていました。それが多少の明かりにもなっていました。発電機を回すようになってからは、盆踊りで使う提灯みたいなものを建物の中に延ばしてぶら下げて、照明にしました。
食料、水
地震後に初めて食べ物を口にしたのは、たしか2日の夜だったと思います。缶詰めになっているパンで、乾パンではなく、黒糖パンでした。あの味を忘れることはないでしょう。めちゃくちゃおいしかったです。その次に食べたのは、たしかアルファ米のわかめおにぎりでした。
設備関係の仕事をしていることもあり、おじと一緒に施設のプロパンガスのボンベを外して厨房に運んで火を焚ける状態にしました。
1月の3日に初動の自衛隊が珠洲までバイクで来たと聞きました。4日だったか、初めて陸路の物資がやって来ました。大量のパンを積んで来てくれました。3日夜だったか、一般のボランティアのチームが物資を持ってきてくれたのも覚えています。
陸路の支援が来てからは、思っていたより食べ物に困らなかったように記憶しています。むしろ、みんな甘いパンに飽きてきた感じでした。小倉マーガリンみたいな甘いパンがたくさん来るので。それから、カップ麺とかレトルトカレーも食べ飽きてる人が多いんじゃないかな。私はカレーは嫌いじゃないのでよかったのですが。
飲み物に関しては意外と困らなかった気がします。ホームに備蓄の水があり、2リットルの水のペットボトルが出回っていました。給水車が来たのは5日だったと思います。
外部からの支援
1月の4日5日頃から、外からの車両が入り始めました。町中の電気が止まっていて、夜は真っ暗な中で、救急のレスキュー隊のサイレンの音がずっと鳴っていて、一生分聞いた感じです。
4日に初めて市役所に行きました。道中の光景を見て、二つのことを感じました。一つは、町が変わり果ててしまったなあということ。二つ目は、その変わり果てた景色の中をいろいろな地域のナンバープレートの車両が走っていて、多くのところから来て下さっているというありがたさです。最初はとにかく自衛隊車両と、救急の消防車とレスキュー隊の車両が圧倒的に多かったです。
あとからわかったのですが、かなり早い時期からDRTジャパンという災害ボランティアチームが来ていました。1月3日から重機を積んで珠洲市にやってきたそうです。道路啓開の作業とか、道にかかる倒壊物をどけて通れるようにしたり、家の中から貴重品を取り出す手伝いをしてくれたりとか。普段は建設業に従事している方が多いようです。手慣れていて、プロのチームのような感じでした。医療関係の救援についてはテレビで見て知っていたのですが、そちらは知らなくて、最初は疑ってしまいました。話を聞いたらそういう方だとわかりました。地元の建設機械の会社の車に乗っていたことからも信頼ができました。20人くらいのチームで、漁港のところに拠点を置いて、そこで寝泊まりしながら作業をしているとのことでした。
かなり早くから知らない人たちが入ってきて、とりあえず見たことのない人相手に疑心暗鬼にはなります。結果的に新聞社の人だったりしたのですが。でもすぐに、警察車両がたくさん来ました。全国津々浦々から来てくれていました。一通りの救援作業が終わってからも、頻繁にいろいろなところをパトロールしていました。そうでないとやっぱり犯罪がありうると思います。
避難所でのトラブル
1月5日の夜でした。その頃には、避難している人の数もずいぶん減っていました。半分以上はいなくなって、100人近くまで減っていたかな。帰省して被災した方も多かったですし。
避難者の中に、認知症を患っていて、アルコール依存症の方がいました。聞くところでは、避難所で毎晩起きて、普通に人が話すくらいの大きな声で喋って、妻さんが何とかなだめて寝かせるということが続いていたそうです。その日も前日までのように起きて喋ってなだめて……となっている間に、なんとその方が妻さんを殴りだしました。近くにいた全員で止めて、何とか押さえてるけど、声を出し続けていて、収拾がつかない。施設の職員と相談して、総合病院に連れて行くしかないということになりました。夜中の3時くらいです。施設の方2人と私ともう1人の4人がかりで車になんとか乗せて連れて行きました。病院で点滴を打ってもらって眠ってくれました。施設に戻ってきたのは5時くらいでした。薬も切れていたうえにアルコールも切れて、そういうことが起こったようです。私はその日は寝ていません。
避難所の日常
避難生活で困るのが衛生面ということはわかると思います。ただし、老人ホームなので、まだましな方だったと思います。いわゆるポータブルトイレがいくつかありました。ただ、見たことがある人ならばわかるんですけど、結構小さいんです。低い椅子みたいな。玄関先の外に無理やり間仕切りみたいなものを作って、そこで皆が用を足すことになりました。間違いなく全員にストレスでした。皆辛かったはずです。匂いもありました。
外の草むらで用を足す人も多くいました。そこらじゅうに紙が散乱していました。仕方ない感じがします。仮設トイレが来たのが、たしか5日頃でした。
夜中も、静かに眠れる感じではありません。周りの人のいびきも含めて。私はいびきを出す側ですけど……。横にならず、同じ場所に座って過ごしている方もいました。腰に悪いのではないかと心配でした。単純に横になるスペースならばあったのですが。冷たい床の上で自分が着ている服のまま横になっていました。そういう意味ではベンチコートを着て出てきてよかったです。パーソナルスペースというものはありませんでした。
老人ホームという性質上、布団とかもある程度はあって、小さい子どもや体の悪いお年寄りには優先して提供されていました。日が経つに連れて自衛隊支援の毛布とかもある程度入ってきました。全員に行き届いたわけではありませんでした。
避難所の駐車場で車の中で寝泊まりしている人たちも一定数いました。ホームには物資を取りに来て、基本的に車中で過ごしている様子でした。
水やその他の物は、私がいた避難所ではその時点では結構自由にもらえました。物によっては職員さんの判断かな。一度、職員さんと話題になったのが栄養ドリンクです。お年寄りたちが見たら絶対欲しがるだろうけど、職員さんがとにかく疲れているので、職員さんを優先したらどうですかって話したのを覚えています。
結局のところ、避難者に対してのあれこれをしているのも老人ホームの職員さんでした。めちゃくちゃ大変そうでした。一応区長さんが声をあげてはいましたが……。職員さんは、そもそも入居している老人の面倒を見なければいけません。ほとんどの職員さんが、数日はご自身の家の様子を見に行くことすらできないまま対応に従事していらっしゃったようです。
被災地向けの医療チームDMATは比較的早い段階で総合病院に応援に来てくれていたそうです。それと似た枠組みで、福祉支援のチームもあるということを聞きました。DWAT。これはDMATよりは優先順位が低いようで、それが到着するまではしんどく、正念場であると、職員さんが言っていました。その方もDWATに加わっていたそうです。1月の2週目頃には来てくれたようで、職員さんが家に帰ることもできたようです。その頃から、入居者を外へ連れて行く活動も始まりました。結局そこは水が出ないままでしたから。
指定避難所へ
高台避難所は一時的な避難の場所なので、1月7日に、移れる人は指定避難所へ移ろう、ということになりました。小中学校です。市内で一番避難者が多かった場所だそうです。1月1日には1100人くらい集まっていたという話で、私が移った時点でも300人くらいいました。
私が学校にいたのは1月7日だけでした。なかなか過酷でした。一つの教室に最大20人。その頃には物資もある程度は潤沢に来ていたはずなのですが、その避難所は、欲しいものを見てから持って行けるようにはなっておらず、何が欲しいか紙にリストアップして行き、あればくれる。何が物資として来ているのかは公開されていないんです。それも一つのやり方だし、それで避けられるトラブルがあったんだろうなあと推察しています。
その晩はなかなか寝つけなくて、車の中で寝ました。毛布とかそれなりに準備がしてあったのですが。人がいっぱいいたし、環境面のせいかな。単純に、最初の避難所を出てからのストレスがあったのかもしれません。今はリロケーション・ストレスという言葉が出てたりしますけど、場所の移動を余儀なくされたことにより生じるストレスです。それにさらされた気がします。
次回へ続く